2014年になってから、給食から牛乳を無くそうという試みが少しずつ行われているらしい。
この根拠として特に主張されている事は、白米などの日本の食文化と牛乳が合わないということ。本当、何をいまさらという感じだ。
私は子供の頃から牛乳が大嫌いだった。今もあまり好きではない。あの生臭い味が好きではない以前に、飲んだら必ずと言っていいほど腹を壊すからだ。悪意を感じるほど冷やされた牛乳は天然の下剤だと今でも思っている。
今はどうかは知らないが、特に小中学校時代は大便用トイレは汚く、そこに行く子供を他のクラスメイトがいじめるという流れが昔あって、学校では大便は我慢するというのが暗黙の約束となっていた。そんな中で牛乳など私のような腹の持ち主が飲めるはずがない。正直、牛乳はほとんど飲んだふりをして、隠して後で捨てていた。
私は給食から牛乳を無くすということに大がつくほど賛成の立場だ。今も潜在的に牛乳に苦しめられている子供がいるはずで、そういう子供を救うことになるからだ。好き嫌いの問題ではなく、多くの日本人が牛乳を苦手にしているという体質の問題でもある。牛乳が好きな小中学生は、水筒にでも入れて持ってきて自分で飲んでいればいい。
小学中学時代に驚いたのは、食べ合わせを考えない牛乳というものだ。牛乳は脂質が多く、旨味などの繊細な味を重視する和食とは合わないと考えるのは自然なことだろう。子供に和食の旨味を教えることなく、拷問に近い形で牛乳を強制的に飲ませることが食育になるだろうか。よく最初に食べたものがまずいとそれが嫌いな食べ物になるということが言われるが、子供の食べ物嫌いを誘発しているのは、美味しい美味しくない給食以前に、食べ物の味を壊して美味しくないものに変えてしまう牛乳というものにあるのではないかとすら感じる。
しかし大人だってよほど牛乳が好きという希少な人以外は、焼き魚、ひじき、漬物、味噌汁、納豆などなどといった和食に牛乳がついてきてそれを「強制的に」飲めと言われたら、出した人の品位を疑うのではないだろうか。給食は長くそういうことを子供に平然と行ってきたのだ。蛮行甚だしい。
私が子供の頃に特に驚いたのは、ラーメンと牛乳という組み合わせだった。熱いラーメンに冷たい牛乳。そして食後の時間は体育とか、腹を下せと言われているようなものだった。牛乳を捨てるのも自分の健康と尊厳を守るためだった。
給食の強制牛乳は、少なくない腹の弱い子供の尊厳を侵している。あまり強制する発言はしたくないという立場であるものの、給食の牛乳、これだけは本当に即時即刻やめるべきだとすら言える。
なぜ給食に牛乳という短絡的組み合わせが日本で標準となったのか、その起源を詳しく調べるのも面倒なので調べないで語るが、戦後の子供の栄養不足でカルシウムを効率よく摂取するためということはよく言われている起源である。それを支持するのであれば、現代ではそんな余計なことは要らないと思える。よほど貧乏な家庭で満足な食事すら摂れないというのでなければ、カルシウムを牛乳から取らないといけないほどカルシウム不足ということにはならないだろう。また骨の成長のためにはカルシウムと比例する量のマグネシウムも摂取しないといけないが、牛乳はカルシウムに過度に偏った栄養構成となっており、骨の発育という議論から牛乳という短絡的な回答を直接は導けないと考えている。牛乳の暴力的とも言えるカルシウム偏重の栄養構成を支持するのであれば、サプリメントでも子供に与えておけばいいとすら言える。
スポーツ選手は、糖分を配合したスポーツドリンクを摂取しているところもあるが、最近のサッカー選手などはヨーロッパの硬水を摂取することが結構あるという。スポーツドリンクは軽い脱水状態に対しては、経口補水液と似た配合で良いとされているが、そこに含まれる糖分が過剰であるために一気に飲み過ぎると急性糖尿病などの症状を誘発することもまれにあるという。それに比べてヨーロッパの硬水は、糖分は含まないかわりに水分補給もできて、多少飲み過ぎても頻尿以外の症状は無く、カルシウムとマグネシウムがバランスよく入っていることから好まれているようだ。給食で子供のカルシウム不足を叫ぶのであれば、水道の蛇口から出てくる水を硬水にすれば良いとすら思える。そうすればマグネシウムも含めて優しく栄養補給ができるのだ。
牛乳を摂取しなくなるという話は、ここ数十年の大人の世界では自然な流れになってきている。店ではいわゆるペットボトル飲料が進出し、飲み物のバラエティが豊富になり、必然的に牛乳というものの占めるシェアは低くなった。今では牛乳よりも水が高いのに支持される時代である。なぜここ数十年で大人が牛乳を飲まなくなったのか。それは前述の通り、天然の下剤であったり、多くの食べ物との相性が悪かったり、日持ちしなかったりと、融通の効かない飲み物であることが認知された当然の結果だと言える。
こんなことを書くと必ず言われるのは、酪農という産業との関連である。牛乳を排除することは酪農家を排除することだと。しかしひとつ言える事は、以前から日本は牛乳の過剰供給状態なのではないかということだ。
もともと明治時代になる前まで日本では牛乳を飲むという習慣がなかった。仏教との兼ね合いから、牛は人間にとって肉や牛乳といった食べ物の供給源ではなく、耕作の力仕事の担い手であった。牛が牛肉や牛乳という形で人間の食文化に関わるようになったのは比較的最近の話である。
農業酪農といった日本の産業は保護産業であるであることも、過剰供給などといった諸問題を抱える一因になっていると言える。保護産業とされることはそれなりの理由があるということを保護産業に従事する人は把握して、保護されていることは保護されていない産業に従事している人よりもぬるま湯であるということを自覚したらいいのではないかとすら感じる。賛成反対の立場は別として、議論も考察もなくTPPに杓子定規に反対している姿は、最初から敗北を認めているようなものである。IT業界のようにアメリカから常時脅威にさらされているのに国から何の保護すらされず、一部に過酷な労働環境が蔓延している状態を保護産業に従事している人は認識して、現実を直視して欲しいとすら感じる。
では、ペットボトル飲料の隆盛により牛乳は衰退の一途であるかといえばそうでもないだろう。日本の牛乳の品質は非常に高い。中国などの近隣諸国へ輸入するということはできなくもないようで、食の安全が脅かされている近隣諸国の富裕層への介入などもできる。すぐ腐るという事実から、遠い国から輸入できるものではないというのもある種の強みだろう。またチーズやヨーグルトといった牛乳の加工食品は、その付加価値が注目されて消費が伸びてきている。牛乳のように日本人の腹を壊す要素も減っている。カルシウム云々以前に、給食にこういう牛乳の「加工食品」が出る割合が低いのに、牛乳という液体を拷問のように飲ませるというのは、それが酪農家とつながった農協の陰謀ではないかとすら感じるのだ。加工食品より牛乳そのもののほうが酪農家への収益が高いとか、そういうことである。それは事実ではないとしたとしても、そう思わせてしまう牛乳偏重を給食事業であるとか牛乳の供給元は反省し、別の活路を見出していく必要があるのではないだろうか。保護産業で給食利権を利用して短絡的に牛乳の過剰生産をして加工食品などといった努力もしないのはもうやめませんか、という話である。
カルシウム不足論を未だに信じている日本人を騙して子供を苦しめるのは、もう勘弁してあげてほしい。日本の未来を支える子供の食育を真剣に考える時期が来ている。
2014/07/06
2014/02/23
法隆寺を作ったのは誰か
法隆寺を作ったのは誰かなんて中学生でも分かる歴史の問題だ。聖徳太子である。
ただ、これには笑い話というか揶揄や詭弁のような類のものがあって、「大工」だという人もいる。実際、「作った」という言葉の定義にも依るだろう。もともと法隆寺は一度火災で消失して誰かによって再建されたという議論もあるらしい。そういった日本史の込み入った話についてはここでは触れない。
「聖徳太子が作った」と言う言葉がしっくり来る一つの重要な要素は「新規性」であろう。
もし聖徳太子が「唐にあるあの建物みたいなもの作って」と適当に言ったのであれば、明らかに真似、いわばただのパクリである。そこには聖徳太子のアイデアは全く介在せず、聖徳太子が作ったといえるようなものではない。唐の建物を調べ真似て、名もない大工達が頑張って作ったものと言える。そうでなく、日本にこういうものが必要だということを、既存の建築物から発展させて発想を結実させて家臣や大工に指示するくらいのことをしたのであれば、それは聖徳太子が「作った」と言えるだろう。
現代では建築士が設計した建物を大工が棟梁を引き連れて作っても、それは「建築士が作った」と言っても誰も疑問に思わないだろう。当然ながら大工が作ったといっても矛盾は生じないものの、大工を誰が束ねたかと言われれば棟梁であり、棟梁を動かしたのは建築士だからだ。場合であれば、建築士に発注した人が作った人と呼ばれる場合すらある。
歴史を振り返ると、加藤清正が築城の名手として名高い。彼は今でいう「建築士」であり、大工のようなことも若い頃にやっていたのだろう。彼が作った城は、文字通り彼が「作った」といって差し支えないものであろう。
突然話を現代に戻して、ゲーム作成の話になるが、時代と共に流行りのゲームは移り変わり、そのジャンルのゲームが流行したら、それを忠実に真似ただけとしか言えない、パーツを差し替えただけのゲームが粗製濫造されてきた。それはコンピュータゲームが登場した20世紀中盤以降からずっと変わらない。2013年に大きなヒットを飛ばした流行ゲーム「パズドラ」は今もゲーム制作業界で「パズドラみたいなゲームを作って」という思考停止した晩飯の要望程度の発言をする子供のような言葉が飛び交う発端となり、思考停止したゲームクリエイターが口に出す常套句となっている。これはファミコン時代のテレビゲームから、マリオ、ドラクエ、スト2…と、ヒット作品が出てきたたびに繰り返されてきた事が舞台を変えてまた繰り返されているだけとも言える。クソなゲーム、いわゆる「クソゲー」が生まれる土壌である。
唐突に書きだしたこの話「法隆寺を作ったのは大工」は、私が以前「日本の某交流サイトを作ったのは業界で著名な某プログラマであって、そこの社長は海外で当時有名だった交流サイトのようなものがあればいいなと曖昧なことを言っただけだ」と実名を挙げて言ったことに対して受けた反駁であった。
聖徳太子はどこまでの建築技術や新たな発想があったかはよく分からないが、そこの当時の某社長は果たして「加藤清正」であったのか。私の「作った」基準は、法隆寺や聖徳太子のような大昔のものではなく、加藤清正くらいの関与と介入があったかどうかで判断している。私は実際に現場にいたわけでも、その内情を知っているわけではないので、私が指した某社長が「作った」「作っていない」まで議論できる材料が揃っているとは言えないが、その著名なプログラマーのその後のインタビューや技術コミュニティでの発表を見聞きしている限りでは、某社長は「作った」とは言えない、前述のような「晩飯の要望」を言っただけだと思っていた。それでよくネタにされる「法隆寺を作ったのは大工」という話を持ち出されてしまうとはなかなか興味深く意外であった。少なくとも私は、業界の流れや、現場の人が外に出てきたときのインタビューを、多くの人よりも注意深く聴いていると自負しているつもりであったが、もっと分析が必要なのだろうか。そう思って、思考の整理のためにこの文章を書いている。
その後、上記で話題にした交流サイトは、その社長の顔となったが、後にその社長自身の施策の相次ぐ失敗により衰退し、それが遠因でその社長は社長の座を退くことになってしまう。そんな元社長に何かを「作る」「発想する」才能がそもそもあったのか、私は他の判断材料を持ち出さずとも、今でも疑問に思っている。ものを生み出すこと、経営をすること、人の上に立つこと、これらは本当に難しい。
ただ、これには笑い話というか揶揄や詭弁のような類のものがあって、「大工」だという人もいる。実際、「作った」という言葉の定義にも依るだろう。もともと法隆寺は一度火災で消失して誰かによって再建されたという議論もあるらしい。そういった日本史の込み入った話についてはここでは触れない。
「聖徳太子が作った」と言う言葉がしっくり来る一つの重要な要素は「新規性」であろう。
もし聖徳太子が「唐にあるあの建物みたいなもの作って」と適当に言ったのであれば、明らかに真似、いわばただのパクリである。そこには聖徳太子のアイデアは全く介在せず、聖徳太子が作ったといえるようなものではない。唐の建物を調べ真似て、名もない大工達が頑張って作ったものと言える。そうでなく、日本にこういうものが必要だということを、既存の建築物から発展させて発想を結実させて家臣や大工に指示するくらいのことをしたのであれば、それは聖徳太子が「作った」と言えるだろう。
現代では建築士が設計した建物を大工が棟梁を引き連れて作っても、それは「建築士が作った」と言っても誰も疑問に思わないだろう。当然ながら大工が作ったといっても矛盾は生じないものの、大工を誰が束ねたかと言われれば棟梁であり、棟梁を動かしたのは建築士だからだ。場合であれば、建築士に発注した人が作った人と呼ばれる場合すらある。
歴史を振り返ると、加藤清正が築城の名手として名高い。彼は今でいう「建築士」であり、大工のようなことも若い頃にやっていたのだろう。彼が作った城は、文字通り彼が「作った」といって差し支えないものであろう。
突然話を現代に戻して、ゲーム作成の話になるが、時代と共に流行りのゲームは移り変わり、そのジャンルのゲームが流行したら、それを忠実に真似ただけとしか言えない、パーツを差し替えただけのゲームが粗製濫造されてきた。それはコンピュータゲームが登場した20世紀中盤以降からずっと変わらない。2013年に大きなヒットを飛ばした流行ゲーム「パズドラ」は今もゲーム制作業界で「パズドラみたいなゲームを作って」という思考停止した晩飯の要望程度の発言をする子供のような言葉が飛び交う発端となり、思考停止したゲームクリエイターが口に出す常套句となっている。これはファミコン時代のテレビゲームから、マリオ、ドラクエ、スト2…と、ヒット作品が出てきたたびに繰り返されてきた事が舞台を変えてまた繰り返されているだけとも言える。クソなゲーム、いわゆる「クソゲー」が生まれる土壌である。
唐突に書きだしたこの話「法隆寺を作ったのは大工」は、私が以前「日本の某交流サイトを作ったのは業界で著名な某プログラマであって、そこの社長は海外で当時有名だった交流サイトのようなものがあればいいなと曖昧なことを言っただけだ」と実名を挙げて言ったことに対して受けた反駁であった。
聖徳太子はどこまでの建築技術や新たな発想があったかはよく分からないが、そこの当時の某社長は果たして「加藤清正」であったのか。私の「作った」基準は、法隆寺や聖徳太子のような大昔のものではなく、加藤清正くらいの関与と介入があったかどうかで判断している。私は実際に現場にいたわけでも、その内情を知っているわけではないので、私が指した某社長が「作った」「作っていない」まで議論できる材料が揃っているとは言えないが、その著名なプログラマーのその後のインタビューや技術コミュニティでの発表を見聞きしている限りでは、某社長は「作った」とは言えない、前述のような「晩飯の要望」を言っただけだと思っていた。それでよくネタにされる「法隆寺を作ったのは大工」という話を持ち出されてしまうとはなかなか興味深く意外であった。少なくとも私は、業界の流れや、現場の人が外に出てきたときのインタビューを、多くの人よりも注意深く聴いていると自負しているつもりであったが、もっと分析が必要なのだろうか。そう思って、思考の整理のためにこの文章を書いている。
その後、上記で話題にした交流サイトは、その社長の顔となったが、後にその社長自身の施策の相次ぐ失敗により衰退し、それが遠因でその社長は社長の座を退くことになってしまう。そんな元社長に何かを「作る」「発想する」才能がそもそもあったのか、私は他の判断材料を持ち出さずとも、今でも疑問に思っている。ものを生み出すこと、経営をすること、人の上に立つこと、これらは本当に難しい。
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