法隆寺を作ったのは誰かなんて中学生でも分かる歴史の問題だ。聖徳太子である。
ただ、これには笑い話というか揶揄や詭弁のような類のものがあって、「大工」だという人もいる。実際、「作った」という言葉の定義にも依るだろう。もともと法隆寺は一度火災で消失して誰かによって再建されたという議論もあるらしい。そういった日本史の込み入った話についてはここでは触れない。
「聖徳太子が作った」と言う言葉がしっくり来る一つの重要な要素は「新規性」であろう。
もし聖徳太子が「唐にあるあの建物みたいなもの作って」と適当に言ったのであれば、明らかに真似、いわばただのパクリである。そこには聖徳太子のアイデアは全く介在せず、聖徳太子が作ったといえるようなものではない。唐の建物を調べ真似て、名もない大工達が頑張って作ったものと言える。そうでなく、日本にこういうものが必要だということを、既存の建築物から発展させて発想を結実させて家臣や大工に指示するくらいのことをしたのであれば、それは聖徳太子が「作った」と言えるだろう。
現代では建築士が設計した建物を大工が棟梁を引き連れて作っても、それは「建築士が作った」と言っても誰も疑問に思わないだろう。当然ながら大工が作ったといっても矛盾は生じないものの、大工を誰が束ねたかと言われれば棟梁であり、棟梁を動かしたのは建築士だからだ。場合であれば、建築士に発注した人が作った人と呼ばれる場合すらある。
歴史を振り返ると、加藤清正が築城の名手として名高い。彼は今でいう「建築士」であり、大工のようなことも若い頃にやっていたのだろう。彼が作った城は、文字通り彼が「作った」といって差し支えないものであろう。
突然話を現代に戻して、ゲーム作成の話になるが、時代と共に流行りのゲームは移り変わり、そのジャンルのゲームが流行したら、それを忠実に真似ただけとしか言えない、パーツを差し替えただけのゲームが粗製濫造されてきた。それはコンピュータゲームが登場した20世紀中盤以降からずっと変わらない。2013年に大きなヒットを飛ばした流行ゲーム「パズドラ」は今もゲーム制作業界で「パズドラみたいなゲームを作って」という思考停止した晩飯の要望程度の発言をする子供のような言葉が飛び交う発端となり、思考停止したゲームクリエイターが口に出す常套句となっている。これはファミコン時代のテレビゲームから、マリオ、ドラクエ、スト2…と、ヒット作品が出てきたたびに繰り返されてきた事が舞台を変えてまた繰り返されているだけとも言える。クソなゲーム、いわゆる「クソゲー」が生まれる土壌である。
唐突に書きだしたこの話「法隆寺を作ったのは大工」は、私が以前「日本の某交流サイトを作ったのは業界で著名な某プログラマであって、そこの社長は海外で当時有名だった交流サイトのようなものがあればいいなと曖昧なことを言っただけだ」と実名を挙げて言ったことに対して受けた反駁であった。
聖徳太子はどこまでの建築技術や新たな発想があったかはよく分からないが、そこの当時の某社長は果たして「加藤清正」であったのか。私の「作った」基準は、法隆寺や聖徳太子のような大昔のものではなく、加藤清正くらいの関与と介入があったかどうかで判断している。私は実際に現場にいたわけでも、その内情を知っているわけではないので、私が指した某社長が「作った」「作っていない」まで議論できる材料が揃っているとは言えないが、その著名なプログラマーのその後のインタビューや技術コミュニティでの発表を見聞きしている限りでは、某社長は「作った」とは言えない、前述のような「晩飯の要望」を言っただけだと思っていた。それでよくネタにされる「法隆寺を作ったのは大工」という話を持ち出されてしまうとはなかなか興味深く意外であった。少なくとも私は、業界の流れや、現場の人が外に出てきたときのインタビューを、多くの人よりも注意深く聴いていると自負しているつもりであったが、もっと分析が必要なのだろうか。そう思って、思考の整理のためにこの文章を書いている。
その後、上記で話題にした交流サイトは、その社長の顔となったが、後にその社長自身の施策の相次ぐ失敗により衰退し、それが遠因でその社長は社長の座を退くことになってしまう。そんな元社長に何かを「作る」「発想する」才能がそもそもあったのか、私は他の判断材料を持ち出さずとも、今でも疑問に思っている。ものを生み出すこと、経営をすること、人の上に立つこと、これらは本当に難しい。
0 件のコメント:
コメントを投稿