2014/07/06

給食から牛乳を無くそうという話

2014年になってから、給食から牛乳を無くそうという試みが少しずつ行われているらしい。

この根拠として特に主張されている事は、白米などの日本の食文化と牛乳が合わないということ。本当、何をいまさらという感じだ。

私は子供の頃から牛乳が大嫌いだった。今もあまり好きではない。あの生臭い味が好きではない以前に、飲んだら必ずと言っていいほど腹を壊すからだ。悪意を感じるほど冷やされた牛乳は天然の下剤だと今でも思っている。

今はどうかは知らないが、特に小中学校時代は大便用トイレは汚く、そこに行く子供を他のクラスメイトがいじめるという流れが昔あって、学校では大便は我慢するというのが暗黙の約束となっていた。そんな中で牛乳など私のような腹の持ち主が飲めるはずがない。正直、牛乳はほとんど飲んだふりをして、隠して後で捨てていた。

私は給食から牛乳を無くすということに大がつくほど賛成の立場だ。今も潜在的に牛乳に苦しめられている子供がいるはずで、そういう子供を救うことになるからだ。好き嫌いの問題ではなく、多くの日本人が牛乳を苦手にしているという体質の問題でもある。牛乳が好きな小中学生は、水筒にでも入れて持ってきて自分で飲んでいればいい。

小学中学時代に驚いたのは、食べ合わせを考えない牛乳というものだ。牛乳は脂質が多く、旨味などの繊細な味を重視する和食とは合わないと考えるのは自然なことだろう。子供に和食の旨味を教えることなく、拷問に近い形で牛乳を強制的に飲ませることが食育になるだろうか。よく最初に食べたものがまずいとそれが嫌いな食べ物になるということが言われるが、子供の食べ物嫌いを誘発しているのは、美味しい美味しくない給食以前に、食べ物の味を壊して美味しくないものに変えてしまう牛乳というものにあるのではないかとすら感じる。

しかし大人だってよほど牛乳が好きという希少な人以外は、焼き魚、ひじき、漬物、味噌汁、納豆などなどといった和食に牛乳がついてきてそれを「強制的に」飲めと言われたら、出した人の品位を疑うのではないだろうか。給食は長くそういうことを子供に平然と行ってきたのだ。蛮行甚だしい。

私が子供の頃に特に驚いたのは、ラーメンと牛乳という組み合わせだった。熱いラーメンに冷たい牛乳。そして食後の時間は体育とか、腹を下せと言われているようなものだった。牛乳を捨てるのも自分の健康と尊厳を守るためだった。

給食の強制牛乳は、少なくない腹の弱い子供の尊厳を侵している。あまり強制する発言はしたくないという立場であるものの、給食の牛乳、これだけは本当に即時即刻やめるべきだとすら言える。

なぜ給食に牛乳という短絡的組み合わせが日本で標準となったのか、その起源を詳しく調べるのも面倒なので調べないで語るが、戦後の子供の栄養不足でカルシウムを効率よく摂取するためということはよく言われている起源である。それを支持するのであれば、現代ではそんな余計なことは要らないと思える。よほど貧乏な家庭で満足な食事すら摂れないというのでなければ、カルシウムを牛乳から取らないといけないほどカルシウム不足ということにはならないだろう。また骨の成長のためにはカルシウムと比例する量のマグネシウムも摂取しないといけないが、牛乳はカルシウムに過度に偏った栄養構成となっており、骨の発育という議論から牛乳という短絡的な回答を直接は導けないと考えている。牛乳の暴力的とも言えるカルシウム偏重の栄養構成を支持するのであれば、サプリメントでも子供に与えておけばいいとすら言える。

スポーツ選手は、糖分を配合したスポーツドリンクを摂取しているところもあるが、最近のサッカー選手などはヨーロッパの硬水を摂取することが結構あるという。スポーツドリンクは軽い脱水状態に対しては、経口補水液と似た配合で良いとされているが、そこに含まれる糖分が過剰であるために一気に飲み過ぎると急性糖尿病などの症状を誘発することもまれにあるという。それに比べてヨーロッパの硬水は、糖分は含まないかわりに水分補給もできて、多少飲み過ぎても頻尿以外の症状は無く、カルシウムとマグネシウムがバランスよく入っていることから好まれているようだ。給食で子供のカルシウム不足を叫ぶのであれば、水道の蛇口から出てくる水を硬水にすれば良いとすら思える。そうすればマグネシウムも含めて優しく栄養補給ができるのだ。

牛乳を摂取しなくなるという話は、ここ数十年の大人の世界では自然な流れになってきている。店ではいわゆるペットボトル飲料が進出し、飲み物のバラエティが豊富になり、必然的に牛乳というものの占めるシェアは低くなった。今では牛乳よりも水が高いのに支持される時代である。なぜここ数十年で大人が牛乳を飲まなくなったのか。それは前述の通り、天然の下剤であったり、多くの食べ物との相性が悪かったり、日持ちしなかったりと、融通の効かない飲み物であることが認知された当然の結果だと言える。

こんなことを書くと必ず言われるのは、酪農という産業との関連である。牛乳を排除することは酪農家を排除することだと。しかしひとつ言える事は、以前から日本は牛乳の過剰供給状態なのではないかということだ。

もともと明治時代になる前まで日本では牛乳を飲むという習慣がなかった。仏教との兼ね合いから、牛は人間にとって肉や牛乳といった食べ物の供給源ではなく、耕作の力仕事の担い手であった。牛が牛肉や牛乳という形で人間の食文化に関わるようになったのは比較的最近の話である。

農業酪農といった日本の産業は保護産業であるであることも、過剰供給などといった諸問題を抱える一因になっていると言える。保護産業とされることはそれなりの理由があるということを保護産業に従事する人は把握して、保護されていることは保護されていない産業に従事している人よりもぬるま湯であるということを自覚したらいいのではないかとすら感じる。賛成反対の立場は別として、議論も考察もなくTPPに杓子定規に反対している姿は、最初から敗北を認めているようなものである。IT業界のようにアメリカから常時脅威にさらされているのに国から何の保護すらされず、一部に過酷な労働環境が蔓延している状態を保護産業に従事している人は認識して、現実を直視して欲しいとすら感じる。

では、ペットボトル飲料の隆盛により牛乳は衰退の一途であるかといえばそうでもないだろう。日本の牛乳の品質は非常に高い。中国などの近隣諸国へ輸入するということはできなくもないようで、食の安全が脅かされている近隣諸国の富裕層への介入などもできる。すぐ腐るという事実から、遠い国から輸入できるものではないというのもある種の強みだろう。またチーズやヨーグルトといった牛乳の加工食品は、その付加価値が注目されて消費が伸びてきている。牛乳のように日本人の腹を壊す要素も減っている。カルシウム云々以前に、給食にこういう牛乳の「加工食品」が出る割合が低いのに、牛乳という液体を拷問のように飲ませるというのは、それが酪農家とつながった農協の陰謀ではないかとすら感じるのだ。加工食品より牛乳そのもののほうが酪農家への収益が高いとか、そういうことである。それは事実ではないとしたとしても、そう思わせてしまう牛乳偏重を給食事業であるとか牛乳の供給元は反省し、別の活路を見出していく必要があるのではないだろうか。保護産業で給食利権を利用して短絡的に牛乳の過剰生産をして加工食品などといった努力もしないのはもうやめませんか、という話である。

カルシウム不足論を未だに信じている日本人を騙して子供を苦しめるのは、もう勘弁してあげてほしい。日本の未来を支える子供の食育を真剣に考える時期が来ている。

2014/02/23

法隆寺を作ったのは誰か

法隆寺を作ったのは誰かなんて中学生でも分かる歴史の問題だ。聖徳太子である。

ただ、これには笑い話というか揶揄や詭弁のような類のものがあって、「大工」だという人もいる。実際、「作った」という言葉の定義にも依るだろう。もともと法隆寺は一度火災で消失して誰かによって再建されたという議論もあるらしい。そういった日本史の込み入った話についてはここでは触れない。

「聖徳太子が作った」と言う言葉がしっくり来る一つの重要な要素は「新規性」であろう。

もし聖徳太子が「唐にあるあの建物みたいなもの作って」と適当に言ったのであれば、明らかに真似、いわばただのパクリである。そこには聖徳太子のアイデアは全く介在せず、聖徳太子が作ったといえるようなものではない。唐の建物を調べ真似て、名もない大工達が頑張って作ったものと言える。そうでなく、日本にこういうものが必要だということを、既存の建築物から発展させて発想を結実させて家臣や大工に指示するくらいのことをしたのであれば、それは聖徳太子が「作った」と言えるだろう。

現代では建築士が設計した建物を大工が棟梁を引き連れて作っても、それは「建築士が作った」と言っても誰も疑問に思わないだろう。当然ながら大工が作ったといっても矛盾は生じないものの、大工を誰が束ねたかと言われれば棟梁であり、棟梁を動かしたのは建築士だからだ。場合であれば、建築士に発注した人が作った人と呼ばれる場合すらある。

歴史を振り返ると、加藤清正が築城の名手として名高い。彼は今でいう「建築士」であり、大工のようなことも若い頃にやっていたのだろう。彼が作った城は、文字通り彼が「作った」といって差し支えないものであろう。

突然話を現代に戻して、ゲーム作成の話になるが、時代と共に流行りのゲームは移り変わり、そのジャンルのゲームが流行したら、それを忠実に真似ただけとしか言えない、パーツを差し替えただけのゲームが粗製濫造されてきた。それはコンピュータゲームが登場した20世紀中盤以降からずっと変わらない。2013年に大きなヒットを飛ばした流行ゲーム「パズドラ」は今もゲーム制作業界で「パズドラみたいなゲームを作って」という思考停止した晩飯の要望程度の発言をする子供のような言葉が飛び交う発端となり、思考停止したゲームクリエイターが口に出す常套句となっている。これはファミコン時代のテレビゲームから、マリオ、ドラクエ、スト2…と、ヒット作品が出てきたたびに繰り返されてきた事が舞台を変えてまた繰り返されているだけとも言える。クソなゲーム、いわゆる「クソゲー」が生まれる土壌である。

唐突に書きだしたこの話「法隆寺を作ったのは大工」は、私が以前「日本の某交流サイトを作ったのは業界で著名な某プログラマであって、そこの社長は海外で当時有名だった交流サイトのようなものがあればいいなと曖昧なことを言っただけだ」と実名を挙げて言ったことに対して受けた反駁であった。

聖徳太子はどこまでの建築技術や新たな発想があったかはよく分からないが、そこの当時の某社長は果たして「加藤清正」であったのか。私の「作った」基準は、法隆寺や聖徳太子のような大昔のものではなく、加藤清正くらいの関与と介入があったかどうかで判断している。私は実際に現場にいたわけでも、その内情を知っているわけではないので、私が指した某社長が「作った」「作っていない」まで議論できる材料が揃っているとは言えないが、その著名なプログラマーのその後のインタビューや技術コミュニティでの発表を見聞きしている限りでは、某社長は「作った」とは言えない、前述のような「晩飯の要望」を言っただけだと思っていた。それでよくネタにされる「法隆寺を作ったのは大工」という話を持ち出されてしまうとはなかなか興味深く意外であった。少なくとも私は、業界の流れや、現場の人が外に出てきたときのインタビューを、多くの人よりも注意深く聴いていると自負しているつもりであったが、もっと分析が必要なのだろうか。そう思って、思考の整理のためにこの文章を書いている。

その後、上記で話題にした交流サイトは、その社長の顔となったが、後にその社長自身の施策の相次ぐ失敗により衰退し、それが遠因でその社長は社長の座を退くことになってしまう。そんな元社長に何かを「作る」「発想する」才能がそもそもあったのか、私は他の判断材料を持ち出さずとも、今でも疑問に思っている。ものを生み出すこと、経営をすること、人の上に立つこと、これらは本当に難しい。

2013/12/25

入院中の人間観察

2013年12月11日から1週間以上入院することになった。急性の胃潰瘍。近所の内科で胃カメラを飲んだあと、入院施設のある病院へ救急車で搬送され、緊急入院となった。

入院中の詳細であるとか、病状の詳細については別のブログにまとめようと思うが、ここでは大部屋の入院中に出会った同室の人達の人間観察の結果を書いてみようと思う。

ちなみにお約束ではあるものの、ここで書かれる人達は個人情報を伏せた形で書かれている。

12月11日に緊急入院してからの最初の数日は、とにかく自分自身が意識朦朧としていて、人間観察をする暇すらなかった。ただ、これからも抱き続ける感覚ではあったのだが、とにかく「同室の人のイビキがうるさい」「老人しかいない」というものであった。若い人も時々入院してきたものの、まぁ入院する人、だいたいは身体が弱った老人なんだろう。また私は普段から不眠の症状があるので、先に入眠したとしてもイビキの爆音で起こされるといったことが度々あった。耳栓を買ってきてもらい、それでだいぶ緩和されたものの、それでも浅い眠りは続いた。そもそもカーテン一枚で仕切られ、看護師さんが夜も出入りする大部屋の「個人環境」は、私の性に合わなかったのだろう。

部屋は4人部屋であった。私のベッドの位置関係には「隣」「向かい」「斜め向かい」という3つの病床がある感じだ。

最初に緊急入院で搬送されてきた数日間は、周囲3人は「死にそうな老人しかいない」という印象であった。実際に危篤というわけではないが、弱りきって生気がない、返事も満足に返せない老人とでもいおうか。自分自身もまた、潜在的な貧血と胃カメラをはじめとした検査の連続、そして慣れない入院生活の始まりに、だいぶ衰弱していたことは事実だ。

斜め向かいの人が退院していって3人になったと思ったのもつかの間、空いた病床にひとりの男性が入院してきた。40台前半と思しき「若い」男性だ。腸の検査の後の入院なのか、一泊二日で帰っていったが、両日ともに妻や数名の子供がやってきて、家族の温かみを感じた。話を横耳で聞いていたところ、会社の社長か役員といった立場の方で、仕事関係の人もちらほら来ていたようだ。家族と会社、この両輪でサポートされている男性に大いにうらやましさを覚えた。また若くて会社の偉い人という立場からか会話もうまく、看護師さんとの雑談もうまいという印象だった。昔はチャラかったのかもなとか邪推してはみるものの、それが40台で家族にも会社にも恵まれて「円熟している」さまは順風満帆な人生であろう。

私が入院当時から向かいにいた老人は、病気の詳細はよくわからなかったものの、入院当時よりも相当元気になったということが看護師から語られていた。それでもヨボヨボ具合を声から感じたりするものだから、普通に老いるとこうなってしまうのかという複雑な思いもあった。尿道に差し込まれた管が痛いとずっと言っていたが、息子さんが泌尿器科の看護師とのことで、泌尿器科が無いこの病院内では一番のアドバイザーになっていたのも興味深かった。看護師の指示には従わないことが多かったものの、息子や妻の言葉には素直に従うところ、家族関係はうまくいっているのだろう。私の入院から数日を経て、その老人は退院していった。正確に言えば、別の病院の泌尿器科にそのまま直行になったようである。

入院当初から隣の人のイビキに悩まされていたが、友人知人のツテを頼って買ってきてもらった耳栓と、その人が比較的すぐ退院していったことによってひとまずの解決を得た。結局最初の隣の人の病状の詳細についてはあまり良くわかっていなかった。自分自身も最も朦朧としていた時期だ。無理もない。

斜め向かいの40台の男性が退院していったあと、そこには骨折で入院してくるOさんが入ることとなった。この方もまた会社の社長らしく、入院当時は家族だけでなく会社関係の方も多数入れ替わり立ち代わりお見舞いに訪れ、また長期間の入院となる事が予想できたことで、業務引継ぎのための会社の社員の方も頻繁に訪れていた。Oさんは、当初はその痛みそのものに強く怒り、その怒りを看護師にぶつける事が多かった。また「部下」と思しき人物への業務引継ぎ時にも激を飛ばす事も多く、元々気性が荒い人なのかなという印象を覚えた。ただ、妻が毎朝お見舞いに来て、その素行についてたしなめる発言を何度もしたことで、だいぶ態度が軟化していった。「入院してお世話になる立場なんだから看護師さんや会社の人へ上から目線はやめなさい」などと。妻の力は偉大だと感じざるをえない。妻は実際は最も心の支えであり、怒りで隠された本当の内心は心細かったのであろう。発言を聞いていると、この歳になるまで入院は初めてだとか、暗に不安を語る発言も多かった。

その後のOさんは、痛み止めで痛みを制御され、看護師さんへの親切に触れるたびに態度を軟化させていった。妻の提言も大きかったのだろう。お礼やお詫びの言葉も出るようになった。後日行われた手術は数時間に渡る大手術であったようだが、手術疲れや諦め、また的確に効いている痛み止めなどの効果もあって、入院当初から比べたら見違えるほど温厚な性格になった。リハビリが長引きそうで退院は年越しになることを残念がっていたが、本当に頑張ってほしいし、良い家族と会社の人達に囲まれている幸せな人だと感じる。入院という人生初の体験もこの人にとって無駄じゃなかったんだと思える。会社での地位が社会での地位ではないということ、これは会社で中途半端に偉い老人が勘違いしてしまう病気のようなものであるが、こういう家族とも会社とも違うコミュニティに触れることで違う価値観がこの年齢になっても生まれるということは、人間まだまだ捨てたものじゃないと思わされた。

空いた隣のベッドには、程なくして新しい人が入ってきた。最初は足の病気とのことだったが、どうやら糖尿病の諸症状の一つであったようだ。この人は本当に外に出たがっていて「仕事の都合で数時間だけ」と看護師に頼み込んで一時外出を一度した。ただ、戻ってきてから血糖値を測られたときに、一時外出時に甘いものを食べたことが看護師に発覚して、看護師から叱られることとなる。身体と機械の数値は正直である。私はこの時、睡眠不足でうとうとしていたのだったが、看護師さんの怒号に驚いて目が覚めた。この後も平身低頭な性格であるが反省はしないその患者に、看護師さんが代わる代わる来て糖尿病の恐ろしさを説く様は、私も糖尿病の恐怖について詳しくなることとなった。しかしその人、最後まで自分の生活習慣を改めて糖尿病を治そうという真剣な態度が無かったように思う。糖尿病自体は別の病院に罹っているとのことであるが、この先思いやられる人であった。このまま行くと、両手足切断と人工透析の末がみえている。健康第一であるし、糖尿病は一生付き合っていく必要のある病気であることが分からないらしい。ただ、足の病気自体は大したことがなかったのか、次の日には妻らしき人がやってきて一泊二日の入院生活を終えていった。

私の前の病床には新しい男性が入ってきた。この人も40台とおぼしき若い男性である。病状はよくわからなかったものの、開腹手術が必要なほどの人らしい。ただ、現在は入院時に比べて薬と点滴で穏やかになっているからなのか、この人もやたら外に出たがる人であった。ただ、その人はパソコンを病室に持ち込んでいることや、医師や看護師との交渉の過程でもかなりの働き盛りであることが伺え、「2時間程度の会議にでもでなくては」といったことを言っていた。ただ病院側としては開腹手術が必要なほどの症状であることを含めて難色を示していたものの、手術が年末で入院が年を越す事もあって、外出許可を出すこととなったらしい。働き盛りの男性とは大変であると同情する反面、こういうときのために属人化の解消をしていなかったのかという疑問もある。会社の重役であればまだしも、その人はそういう感じでもないようだった。しかもこの人、いびきが猛獣レベルでうるさくて本当に敵わなかった。耳栓をしていても時々聞こえるけたたましい音に、一日一睡もできない日ができたくらいであった。たぶん40台であのいびき、ちょっと別の意味でまずいのでは、と思わされるくらいであった。程なくして何かの事情か、別室へ移っていった。安眠が戻ってきたと思った瞬間だった。

12月20日になった朝方、この日はよく眠れて5時過ぎにトイレで目が覚めた。眠っている間にカラだったはずの隣の病床に救急患者が運ばれてきたようで、トイレでカーテンを空けたところでその老人である救急患者が血を流しながらトイレに向かっているのを看護師達が必死で制止しているのである。びっくりしつつ、一人の看護師さんから別のトイレを案内され、そこで用を足した。その後もこの老人の「言う事を聞かないっぷり」に看護師さん達は翻弄され続けたようだ。こういう老人、入院中にも行動の大小あれ結構いる印象を覚えたものの、ボケているのか言っても忘れるのか(同じ意味?)、本当によくわからない。人間、人から言われたことを咀嚼して理解できなくなったらあんな哀れなことになるのかと思ったと同時に、自分はそういう老い方をしたくないと痛感した次第だ。症状は胃からの吐血とのことで、私と同じ胃潰瘍のような感じであった。私もあのまま放置していたら吐血して倒れたと考えるとゾッとする。流血事件そのものは吐血ではなく、点滴などの管を引きちぎって移動しようとしたことによるもののようだった。

「朝の流血事件」を起こしたこの患者、振る舞いは無礼ではないものの全く看護師の言う事を聞かずに何を考えているのか、その後も午前中自由奔放を振る舞った挙句、また看護師の制止を振り切って(自分の)流血事件を起こしたため、家族同意のもと個室へ軟禁される事となったらしい。私はその時「午前の散歩」と称して歩行許可が出たあとの日課として病院内を歩いて運動していたので、昼食時に病室に戻ったらその人はおらず、血で汚れた仕切りのカーテンでその惨状を垣間見たのであった。看護師さんに「お騒がせしました」と言われても「あぁ、そんなことがあったんですか」と言う他なかった。

入院当時から賑わっていた大部屋は、この時Oさんと2人になった。血で汚れたカーテンを看護師さんが回収して見晴らしが良くなったので、ちょうど洗面台の前に来たOさんの妻と目があって少し会話をした。押しの夫と引きの妻とでもいおうか。時に強く会社を支える夫とバランスを取るように、平身低頭で物腰語り口の柔らかな奥様であった。携帯電話の充電器などのデジタル機器は揃っているので、入院中困ったら声をかけて欲しいと言っておいた。私の業界だけでなく、何事もギブアンドテイクの世界。困ったときはお互い様である。

その後、前の病床に入ってきた老人は、息も絶え絶えのようだった。病気の詳細はよくわからなかったが、家族の話では認知症の要介護認定を受けているとのことだった。ただ、認知症ではあるものの比較的大人しく、当初は問題行動も起こさず、いびきの音も大したことが無かったので、私の中では気にならない存在であった。ただ、呼吸のたびに四六時中声帯を震わせて「フゥ、フゥ」などと言い続けて、時に痰が絡まって酷い咳をしているさまは、なんとなくつらそうであった。

私の退院前日に、しばらく空いていた隣の病床に若い男性が女性付き添いのもと入ってきた。天皇誕生日で祝日なのに歩いてやってくるとはどういうことだったんだろう。歩いてやってきたことや、看護師の説明では「明日手術」の入院とのことで、整形外科系の比較的軽い疾患なのかもしれないが、全身麻酔という話も聞いたので、そこそこ重い手術をするのかもしれない。しかし、タバコ臭いし、食事制限ある僕の隣でお菓子ボリボリ食うし、女同伴だし、外出時にタバコを吸いたがって看護師に制止されたりするし、暴走老人とはまた違った違和感があった。看護師さんによると、全身麻酔をする前にタバコを吸うことは、痰を吐けなくなる危険性があるので強く禁忌されているのだそうだ。それでも次の日になるにしたがって絶食になり、手術前の慌ただしい看護師の出入りを見る限り、見た目とは裏腹に結構な病気なのだろうと思ったが、入院期間はそれほど長くないらしい。半身麻酔が怖くて全身麻酔を選んだということなのだろうか。私も以前整形外科で手術をしたときに全身麻酔も選択肢で選べたが半身麻酔にした経験がある。手術当日になって、前日の女性と友達とおぼしき男性が面会に来ていた。チラッとみたところ、ロン毛の長髪の男性で、会話を聴いていてもどんな職業の人なのか、にわかに素性がわからなかった。ミュージシャンとかなのだろうか。その人が歩いて手術室に行くと同時に私が退院することとなる。

前の病床の老人は、いびき等の音こそ比較的おとなしいものの、これまた日を追う事に看護師の言う事を聞かなくなり、看護師総出で点滴を打ったり体を起こしたり、大変な思いをしているなという印象を覚えた。何度も繰り返し言っている気がするものの、認知症とは特に周囲にとって大変な病気なのだなと思った限りである。最低限、自分に出来る限りの認知症予防をしようと心に誓った。若くして亡くなったパスカルの言葉「人間は考える葦である」に従って、生きている間は自分の考えをアウトプット出来る人間になりたい、今回病室でまるまる二週間、色々な患者、傍若無人な暴走老人や、特に認知症の患者を見るにつけ、そう心に誓った次第である。

今まで、他の入院患者はうらやましいくらい妻や家族や彼女らしき人が必ず毎日のようにお見舞いに来るという特徴があったが、この老人は、入院当日こそ息子らしき人が説明をしに、また説明をききに訪れたものの、その後誰も来た形跡がなかった。この老人と最初の息子らしき人がどのような関係なのかよくわからないし、どんな家族親戚がいるのかもよくわからないが、普段からのこういう振る舞いを周囲が見捨てているのかもしれないといった印象すら覚えた。それが本当であれば寂しい限りである。

私の退院は12月24日の昼食を食べた後だった。隣の男性が看護師付き添いの元、手術着で歩いて手術室に向かった直後である。病室に残されたのは、前の認知症を併発している老人、そして会社社長らしきOさんであった。退院の挨拶をしようと思ったものの、特に入院患者同士の面識は無かったということと、年越し入院が確定して落ち込んでいるOさんにとって酷かなと思ったで、病室をそっと出た。

まっすぐ1階の会計まで行ってもよかったが、ナースステーションに寄って、お世話になった看護師さん達に2週間のお礼を言った。お世話になった看護師さん全員がいたわけではなかったが「2週間お世話になりました。今いない看護師さんにも本当にお世話になったので、私がお世話になって感謝していた旨、お伝えいただけますか」と看護師さんに伝えて病室があるフロアを後にした。12月24日昼のことである。看護師さんはみんな良い人で、注射や点滴の痛みもない腕の持ち主ばかりで、入院生活の苦痛を最小限にしてもらえた。

1階の会計で入院費用を支払い外に出て、私の12月11日からの約2週間の入院生活と、入院中の人間観察が終わることとなった。

2013/12/18

なにで写真を撮るか、なぜ写真を撮るか

ここ最近のスマートフォンのカメラ機能は進化の一途を極めている。

この流れの中で「コンデジ」と呼ばれるデジタルカメラが危機に立たされている。いわゆる、プロ用途の「デジイチ」とアマチュアがこれで事足りる「スマートフォン」の間に立たされて、帯に短し襷に長し状態になっているのだ。

現在最新のiPhoneも800万画素という高解像度である。一昔前の800万画素は完全にプロユースであった。800万画素で撮られた写真を光沢紙に印刷しても、銀塩のフィルムカメラと比較しても全く遜色はない。

プロ用途の「デジイチ」となると、さらに光学ズームであるとか発色であるとかといった差別化が可能となる。スマートフォンのカメラは所詮はデジタル処理であるものの、デジイチであれば巨大なレンズを装備して光学ズームが可能であったり、発色もスマートフォンのカメラよりも良いと言われている。確かに画素数的にはスマートフォンのカメラで十分な場合が多いものの、それでも画面上で見たり印刷されたものを見たときの発色に目を奪われることが多い。特にスマートフォンが苦手としている空であるとか花火であるとか、そういう画像はデジイチの面目躍如であろう。また、人であるとか肌の質感などを直接伝えたい写真でもデジイチで撮られた写真は説得力を増す。

このような中で「コンデジ」の立ち位置は微妙になってしまった。私もコンデジを持っているものの、ほとんどiPhoneのカメラで事足りる。コンデジを使う機会は、光学ズームが必要であったりする場合に限られるものの、コンデジの光学ズームはそれほど優秀ではないというのが使っていて思ったことだ。まぁ、これは使う人の腕にも左右されるところではあるのだろうが。

ブログに載せたりといった用途では、ほぼスマートフォンのカメラで撮影できる写真の解像度や品質で問題ないだろう。それにコンデジよりもiPhoneなどのスマートフォンのほうが肌身離さず携帯しているという事実もあり、さらにコンデジの立ち位置を微妙にしている。一般人がコンデジやデジイチを持つ理由が無くなりつつあるように感じる。

今後コンデジはどうなっていくのだろうか。立ち位置を明確にできなければ、今後数年間の間にスマートフォンかデジイチの市場のどちらかに吸収されてしまうのではないかとすら思える。スマートフォンのカメラの高機能化、またデジイチの小型軽量化による大衆化。それはどちらも楽しみな進化である。

話は変わるが、なぜ私たちは写真を撮るのだろう。

私はどちらかというと外見にコンプレックスを持っている人なので、子供の頃から写真に写るのが非常に嫌だった。今もあまり得意ではない。なので成人するまでの私の写真は非常に少ないはずだ。社会人になって普通に仕事をしている分には、写真を撮られる機会は格段に減った。ただ、ここ数年は勉強会やカンファレンスで発表したりするときに撮影されたりする機会も多く、それは許可している。人によっては「撮影NG」という人もいるが、まれな部類であろう。そこまでして拒絶しなくても私はいいかなという考えである。

ただ、被写体として写真に写った自分を見るたびに、学生時代から老化が進んでいるなと悲しい気持ちになる。最近では外見の若返りといったアンチエイジングが流行していたりもするし、運動をすることで新陳代謝を良くしていくという作戦もあるので、まさに写真に撮られる事が「若返りへの動機付け」となっている部分が大きい。しかしながら、主だった活動がまだできていないのが心残りであるが、それは来年2014年の課題としたい。

勉強会やカンファレンスに出た際は、自分自身がスマートフォンででもなるべく写真を数枚は撮ることにしている。その時の雰囲気を他の人に伝えたい場合、どんな言葉よりも写真に撮られた会場の風景が説得力を持つことも多いからだ。そういう積み重ねを他の人にも見てもらえることで、勉強会に足を運んでくれる人が一人でも増えれば良いと考えてのことである。また、プレゼンテーションをする際に、過去の勉強会の記録であるとか、自分が撮影した写真というものは使い勝手が良い。他人が撮影した写真はとかく権利問題があったりして使いづらい部分もあるので、日頃から人前でプレゼンテーションをする人は、自分用の素材として写真を撮ることを習慣づけると良いと感じたのもここ数年のこと。

自分一人の思い出であれば記憶力が良ければ頭で覚えておけばよい。しかしそれでも、人は概して忘れやすい生き物である。忘れやすい自分自身の精巧な外部記憶として、また他の人との過去の記録の共有手段として、写真は非常に効果的だと最近は痛感している。自分が被写体になることにコンプレックスを抱いていて写真全体を拒絶していた頃とは考えが随分変わった。

その他にも、写真が持つ芸術性であるとか、様々な理由で人は写真を撮るのだろう。「なぜ写真を撮るか」という簡単ではあるが考えるとちょっと悩む質問ではあるが、もしこれといった回答があれば様々な方から聞いてみたい。

写真をたくさん撮影すればするほど、その管理に頭を悩ませる人が多い。この部分については決定打といったものが存在しないようで、皆がそれぞれの方法で写真を管理しているようだ。私も写真は撮りためたものをスマートフォンに入れっぱなしにしている。何か良い管理方法を実践している人がいたら、ぜひともご教示願いたいところだ。

2013/11/25

新聞のゴシップ化に我々はどう対応すべきか

子供の頃、新聞というのは正しい事実を伝える高尚な言論機関だと思っていた。学習教材や入試問題に使われたりすることもあって、そういう思いが強かった。

しかしがら、現在はそういう印象を新聞に抱くことは無くなってしまった。大手新聞社の新聞もゴシップ紙と何ら区別が付かなくなった…なんていったらゴシップ紙が怒る時代にすらなってしまった。

大人になって何が変わったか。それはインターネットの登場が大きい。新聞やテレビなどの「マスコミ」と呼ばれるメディアだけが多くの人に情報や主張が出来る時代は終わった。今やインターネット上で誰もが実名または匿名で情報を主張できる時代になった。

その中には、新聞記事の正しさや公平さに疑問を持った議論を目にすることも多くなった。それは子供の頃、またはインターネットという新しい媒体が存在する以前は、あまり無かったのではないだろうか。いわば昔は、新聞やテレビが言った事にそのまま踊らされる民衆という構図を感じる。

インターネットでは風物詩になっているネタの一つに「日本経済新聞の妄想記事」というものがある。日本経済新聞(日経)が有りもしないことを書くというものだ。これもインターネットの登場によって、企業が自社の意見をインターネットを通して大衆に伝えることができるようになった。日経が、とある会社を標的にした憶測記事に対して「一部報道機関による…当社ではそのような事実はありません」というリリースがその会社のウェブサイトに載る、というのは日常茶飯事ではなくなった。しかし世の中、すべての人がインターネットで新聞の裏を取っているわけではない。昔ほどではないが、少なからず新聞の影響力もある。「ひょうたんから駒」とは恐ろしいもので、日経の憶測記事で「傾く」と言われた会社が、それによって本当に株価が下がって傾く事態すらある。風説の流布としか言いようがない、呆れた日経テロである。「ペンは剣より強し」とはよく言ったもので、今の日経がやっていることは「ペンの暴力」に近いとすら思える。

最近では風物詩として笑い飛ばされていた日経の憶測記事の一つに「ドコモでiPhone発売か」というものもある。2013年にドコモでiPhoneが発売され、ようやく「日経の悲願」が達成されたとネットでは笑いものにされていたが、日経は数年前から年に何度も「ドコモでiPhone発売か」と書き、そのたびにドコモから否定のリリースが出るという事態であった。2012年頃にはインターネットで情報収集する人のほとんどは、日経が発する「iPhone」というキーワードが入った記事の信憑性を一切信用しないという風潮すらできた。日経の記者はドコモでiPhoneが発売されて欲しくて病的妄想記事を一心不乱に書いていると主張する人まで現れた。

「日経の悲願」は2013年に叶うことになるが、面白いのはそれを真っ先に伝えたのは日経でなく他の新聞社であったということだった。そしてインターネットで情報収集をしている人達は「あぁ、日経じゃなければ信憑性あるな」と言い、実際にそれは事実となった。日経もこの時後追いで記事を書いたものの、誰の相手にもされなかった事は言うに及ばずである。

2013年、バブル崩壊以降、日本の就職活動は益々厳しさを増している。そんな中、日経は就職活動中の大学生に対して「就職のためには日経を読んで経済を知ることが近道」といったような広告を出している。何となく、コンプレックス産業であったり不安産業であったりと似た手法を感じるのは気のせいだろうか。この風潮にはインターネット以前の中年壮年世代の日経信仰もあって、なかなか若者を苦しめている。この世代は若者を「面接する」側でもあるからだ。インターネットから情報を知り、日経の信頼性の瓦解を痛感している学生も、就職活動という厳しい活動のために、高い金を払って無駄な時間をかけてまで読まないといけない、またはそうするべきだと不安を背景に学生や若者を無理やり扇動している場面があるように思える。

ここまで痛烈にもとれる日経批判を繰り広げてしまったが、それほどまでに日経が自称報道機関として正確性に欠けた情報を節操もなく流し続けている、質の良いとはいえないメディアだと考えざるを得ないからである。文字だけで、これほどまでに人を扇動し、会社や経済活動に迷惑を掛けることができるんだという壮大な社会実験としては興味深いが、それ以上の価値が現在の日本経済新聞と日本経済新聞社には正直見受けられない。日経を片手に持つことがステータスだったバブル崩壊以前、それはインターネットの登場とともに崩壊してしまった神話であろう。

では何を信頼すれば良いのか。

日本の巨大匿名掲示板サイトを作った西村博之氏は「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉を残した。匿名掲示板には匿名ゆえに嘘やデマが書かれることが日常茶飯事である。その中から本当に役に立つ情報を見つける能力というものが匿名発言の世界を読んできた世代の一定数には備わっている。今やまさに「うそはうそであると見抜ける人でないと(新聞を読むのは)難しい」時代になってきているのかもしれない。

とはいえ、そういう商業活動報道機関の体たらくに辟易とした一部の人によってインターネット上で市民報道機関といった試みが何度かなされたものの、どれもうまくいったといえる事例が存在しないのが事実である。資金力と行動力といった部分では、まだ新聞やテレビの報道機関が優位な点であろう。今後もしばらくは「うそはうそであると見抜き」ながら新聞やテレビなどが発する情報に接する必要がある。

では我々は今後どのようにして報道機関の発する情報に接していけばいいのか。

まず新聞やテレビは全て正しい事を言っているという考えがあればそれを捨てるところから始める必要がある。いまどきそういう考えを持っている人は少なくなってきているとは思うが、まだ新聞やテレビの信頼性は大きい。かの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」と言った。自分の存在以外はまず疑ってかかる、という大げさなものであるが、新聞やテレビの信憑性の凋落、またインターネット上にあふれる信憑性の怪しい匿名情報など、今後情報と接する際に「まず疑う」という態度は非常に大切になってくるだろう。平和な日本の国語教育では全ての文章が正しいという牧歌的な世界観であるが、そんな教育では騙されやすい国民を養成するだけになってしまうだろう。学校教育の変革、もしくはそれとは別の教育が今後求められてくるように感じる。

社会に出て成人になると、政治的・思想的に新聞やテレビが必ずしも中立的ではない事を知ることになる。右が正しいか左が正しいかといった議論は置いといて、どんな報道を聞く場合にも政治的・思想的な偏りを加味してそれを頭の中で補正する力が求められるだろう。例えば、とある新聞は政治的・思想的に左寄りである。左寄りが正しいか間違いか自分の思想と合っているか合っていないかは別として、それを知り、それを知った上で情報を補正する力は必要であろう。自分が好む論調をする新聞のみ読むという手もあるが、それはそれで見識が狭くなるし、その新聞が発する情報全てが正しいとは言えないので、結果的に情報の真贋を見抜くスキルは必要となる。真贋入り乱れる情報源が多いからこそ、自分が触れる情報源は多いほうが良いという意見もある。

「どの新聞が最も中立的で最も信頼できるか」という質問に対しては非常に答えづらい。インターネット上の議論を観察していると、大体どの新聞社も定期的にとんでもない論調を繰り広げている事があるからだ。ただ私は日経は勧めない。不安商法で社会人の多くが読んでいる割にはビジネス上ことさら有益な事が書いてあるとは思えないからだ。人生には、他人と同調するのが大切な場面と、他人と同調せず自身を差別化するのが大切な場面の二通りがあるが、どうせ日経なんて誰もが読んでいるんだから、自分なら別の新聞を読んだほうがいいという後者的な考えが私の意見である。日経が良い悪いという議論ではない。ただ、私は日経の「風説の流布」に飽き飽きとしていることは前述でお分かりの通りだろう。読みたい人は読めば良いと思うし、何を読むかは自由である。

「事実を客観的に伝える」「特定の思想を入れない」というのに最も近いのは共同通信社が発する情報であると思うが、残念ながら共同通信社は新聞を発行していない、他の新聞社、特に独自の報道網が弱い地方紙のために報道情報を提供する報道機関のための報道機関だからだ。

今や新聞社もインターネットで情報を発信する時代である。一部の報道に関しては新聞を購読せずとも読める。特に各新聞社の色が出るのが社説で、各社の社説を読んでいるとその思想の違いが現れて面白い。ただ、特に地方紙の社説とかは、時に何を血迷ってこんな文章を書いたんだと甚だ驚くような思想以前の文章が載っている事があって、「国語の入試問題にも使われる」社説というのは一歩間違えると色々危険だなと思う事もしばしばある。社説の雛形というものも共同通信社から地方紙に配信されていると聞くが、丸写しはできないはずなので、社説には地方紙の考えと記者のレベルが露骨に表れる。それだから怖いし、真贋を見極められるだけの読解力を持っていると逆に面白いと言える。社説を読んで「これゴシップ紙じゃ…」と声を出して言ってしまう事も結構ある。強引な論理展開を楽しんだり、情報の真贋を見極める力がそこそこある場合は娯楽メディアであるともいえよう。ただ、高校生向けの入試問題等にはして欲しくないと真に願うばかりである。

前述の「ドコモiPhone」、日経が報道するたびにインターネットでは「またゴシップ紙が」といった論調が出るのだが、実際のゴシップ紙の一つである東スポ(東京スポーツ)はインターネット(Twitter)上で「私たちがやるならイタコでジョブズ(iPhoneを発売するApple社の最高経営責任者だった故人)降臨ですよ」などと日経を揶揄し、日経のようなものと一緖にされるのを酷く嫌う発言をするくらいだから、本当に楽しい。日経をゴシップ紙というのは本当のゴシップ紙に失礼だというのが冗談ではないのは、今の日経の状態と、日経に対する皮肉以外の何者でもないだろう。

私もそうだが、嘘の情報に踊らされて、それを拡散した経験がある人は少なくないだろう。そんな中で、人は「全ての情報が正しいわけではない」という学校では習わなかった事を学んでいく。今後はそういう事も若いうちから習うことになるのだろうか。とかく日本の国語教育は小説偏重で、大人になって技術書や説明書などの日本語で書かれたあらゆるジャンルの文書を読む際の配慮が本当に不十分だと常々思っている。それ以前に、情報の真贋といった部分を教育する必要があるというのが、インターネット上にあふれる真偽不明な匿名情報以前に、新聞という「権威のある報道機関」と接するための素養として必要であるというのは、なんと皮肉なことかと思わされるのだ。

2013/11/14

座右の銘は「人間は考える葦である」

人生の要所要所で聞かれるものの一つに「座右の銘」がある。

本当に自分の人生の教訓として日々肝に銘じている人、たまに聞かれるから回答を準備しているだけの人、今日この文章を読むまで気にしたことが無かった人、色々な人がいそうではある。

私は高校時代から数学が好きで、大学時代に数学を専攻していたこともあって、哲学者であり数学者であるパスカルの「人間は考える葦である」という言葉が非常に好きだった。まだ座右の銘を聞かれない年齢からそうだったものの、社会人になってからもその言葉が好きだったので、自然と座右の銘にしている。

「人間は考える葦である」とは、パスカルが晩年に書いた断片の中の一節で、それが後世「パンセ」と呼ばれる断片集に収録されることになった。この「人間は考える葦である」を収録した断片の全文はもう少し長い。色々な和訳があり、解釈も様々であるが、この部分の解説は哲学に詳しい人に譲ろうと思う。

葦であるというのは、この断片の全文の中に登場する「宇宙」との関わりである。人間は宇宙や自然、それに病気などの運命的要因によっていとも簡単に押し潰されてしまう存在であることを言っている。文字通り、人間が生身で宇宙に放り出されたら一瞬で死んでしまうことだろう。パスカル自身、終生病弱であり40歳を迎えず亡くなったことから、日々病魔と戦う中で、病気に抵抗するのではなく、病気と共に細々と生きていくという意味も葦という喩えに込められているという人もいる。強風で木々は折れたりするが、葦はしなることはあっても、風が止めばまた元通りになる。弱いものを形容する方法は様々だが、パスカルが葦という題材を選んだのはそういう理由なのかもしれない。

そして、パスカルが言う「宇宙」はいとも簡単に人間を押し潰してしまうが、人間は考えることで宇宙を包むことができるという。2013年現在、宇宙というものの大部分が未知の領域であるものの、人間は考えることを繰り返して宇宙というものの全貌を知ろうとしている。最近であればヒッグス粒子の発見などが記憶に新しい。この下りは、「宇宙」という単語と「考える」という単語の原文のフランス語で発音か綴りが掛かっているという話を聞いたことがあるが、それが正しいものか、またどういったものかは覚えていない。

私が非常に共感している事は「考える」という部分である。全てのことにおいて、楽しい事を切り開いたり困難を打開したりすること、それら全てがまず「考える」という活動から始まる。考えるということは理性的である人間の重要な活動であり、また私が最も重要視していることの一つでもある。それは数学や哲学のみならず、全ての人間の活動で重要なことであろう。

突然だが、数学や論理学には対偶という概念がある。「PならばQ」という命題が真であれば「QでないならばPでない」という命題も真であるというものだ。「人間は考える葦である」を対偶命題にしてみると面白いというか恐ろしい。人間が宇宙に押し潰されてしまうことは自明なので葦の下りは簡潔化のために省いて対偶命題にしてみると「考えなければ人間ではない」となる。人間は日々考えなければならないのだ。考えることをやめてしまうと、ある意味人間としての主体性を失っていると言われても仕方が無いように思える。確かに仕事上でも考えることを怠りがちな人と会話をしていると、人間と会話している気がしない、出来そこないの人工知能と上辺だけの日本語を交わしているだけの気分になる。

考えすぎることでネガティブ思考を持ってしまうことも良くない。私はつい考えすぎてその罠にはまることが多く反省することたびたびではあるが、人生を楽しくするアイデア、仕事を豊かにするアイデア、そして人々を幸せにするアイデアは、日々考えることを突き詰めないと出てこない。「ひらめき」という言葉もあるが、ひらめき自体も日々考えることが下地になっていることが多く、毎日何も考えず突然ひらめくということは無いように思える。やはり日々考えることは大事だ。

数学者としてのパスカルも見習いたい。数学は万物を解明するための基礎理論である。社会人になって怠りがちである基礎の勉強もしなくてはならないと、この文章を書きながら思った次第である。数学は考える絶好の教材だ。

晩年のパスカルではないが、日々困難が多い現代社会、私は弱い葦のような人間であるが、宇宙が与える運命を受け流しつつ、考えることでそれを打開して少しでも社会に貢献したいと思う今日この頃である。

2013/11/12

2013年の東京の気候に想う

2013年11月12日。ここ数日の東京は強風が吹きすさび、最低気温が1桁台にまで落ち込むことが多くなった。

思い返せば今年の「東京の夏」は暑かった。いや日本全国が記録的猛暑に見舞われた。

よく私は東京の5月から半年近くにわたる暑くてたまらない季節を「灼熱地獄」と言っている。暦の春夏秋を逸脱しているとすら思う。私は北海道出身であるが、東京というか北海道以南には「梅雨」というものがあって、それもまた蒸し暑い鬱陶しさに拍車をかけている。気温は20度台でも汗が蒸発しないのだ。不快極まりない。

しかし思い返せば、9月末に大きなイベントがあった時、また一段落ついて10月上旬頃も、外を少しでも歩けば暑くて手持ちのタオルで顔の汗をぬぐっていた気がする。10月下旬になって「そういえば外を数分歩いても汗をかかなくなったな」と思った途端、外を歩く人達はコートを着ていた。「東京の秋」は何日あったんだという変わり様である。言えることは10月中旬は秋だった、という位である。

北国で18年育ち、寒さに強い私も、防寒具を着ないで1桁台の気温の中で強風に煽られると体温が奪われてしまう。さすがに寒さに強い人も所詮は恒温動物であり、体温を1桁台にしようとする力には屈してしまうだろう。ここ最近は風が強いときは防寒具を着ている。

北海道の内陸の真冬の寒さはマイナス10度を下回るわけで、東京の1桁台の気温なんて大したことないと思ってはいたものの、幾年も生活していると、いくつかの意味で北海道の真冬よりも過ごしづらいことがわかった。

まず、北海道では外を歩かない車社会であるが東京は交通機関を渡り歩くということ。また住居の気密性が北海道に比べ格段に劣るので、室温がすぐ外気温に影響されることと、暖房の効率が悪いということ。また北海道感覚でいうと1桁台の気温というのは秋の中間的季節のものであり、北国的感覚では着るものが中途半端なままの季節が東京では数ヶ月続くということ。また、個々人の感覚や比較方法によっても変わってくるとは思うが、積雪が無いからか湿度が下がりがちでからっ風が吹くということ。関東平野という場所にあるとはいえ、高層建築物が巻き起こすビル風などの要因もあるのだろう。

私が住んでいた北海道帯広市とその周辺は完全に内陸だったからか、「東京の冬」に比べて風が吹いたりする頻度は少なかったように感じる。もちろん西の山脈から吹き下ろされる風や地吹雪といった天気もあるが、それほど頻繁ではない印象を持っている。また車社会なのでそんなことは関係ないということもあるだろう。

北海道から東京に来た多くの人は「風が乾燥していて北海道よりもある意味きつい」という。東京はすぐ近くに海があるのに意外な感じもするが、風が陸地の西側や北側から吹くことが多いのでそうなのだろう。上述の通り、北海道は気温こそ極寒で飽和水蒸気量も少ないものの、積雪のおかげで湿度は保たれているという感じもする。

今年の夏の北海道は暑かったらしい。全国的な記録的猛暑である。それでも東京とは違い「熱帯夜」というものは圧倒的に少ない。温暖化の影響か今年の記録的猛暑かは分からないものの、十数年前は全くなかった「北海道の熱帯夜」が最近ではそこそこあるという。それでも半年続く「東京の灼熱地獄」よりはマシであろう。東京の8月は、外で玉子焼きができそうな気温であるが、8月の北海道は心地良い。夜は気温が10度前後に落ち込んで寒いことすらある。

気候面でも東京は、他の北や南の日本の都市に比べて過ごし辛いと思う。南、赤道に近づけば近づくほど暑くて嫌気がさすと思っていた時期が私にもあったが、東京より沖縄のほうが涼しい天気予報を何度も見て、そういう印象は払拭した。人口密集が世界有数の東京という都市ならではなのだろう。

灼熱地獄の中で半年も汗をかいていると、正直「北海道に戻りたい」と思うこともちらほらある。ただ、東京は色々なものや情報が集まっている。特に物流の発展で、物は多少待てば日本中どこでも実物が手に入るが、情報は待っても本当の「実物」が手に入らない。これほどまでにインターネットが発達して情報化社会になった今でも、実際に人と顔を合わせて情報交換することが最も良い情報を入手する手段であることを痛感している。動画であったり音声であったり文章であったり、情報伝達の手段は色々あっても、現地にいること以上に良質な情報を得る手段はない。また、東京という日本の首都が持つビジネス等のスピード感は若いうちに経験しておきたいという気持ちもある。滝のような汗をかいても東京という場所に住んでいる価値はあるのだ。

本当であれば、日本全国に人々がほどよく散らばって、特定の都市に極度の一極集中をしないほうが良いのだと思う。その分、交通が発達して安く早く移動ができて、日本全国の人が気軽に集まれる生活基盤があることが理想であるものの、それは近い将来の話ではなさそうだ。

最近では、福岡や札幌といった地方都市が栄えて、そこに定住しつつ、東京の人と関わる必要のある普段の仕事はネットを使って行い、用事がある場合は気軽に格安航空券での東京との往復をするという生活スタイルをする人も増えていると聞く。東京と福岡・札幌間の航空券はドル箱路線であるゆえに、他の地方都市に比べて安く、鉄道より早い。また家賃や物価などが東京に比べて安いというのも、東京との交通費にあてられる側面だろう。収入が少なくてもそういう生活スタイルが確立できるのであれば、私も福岡や札幌を拠点に活動したいと常に思う。

上述のような地方都市を拠点とした首都圏との関わりができないうち、また身体が耐えられる若いうちは、一瞬の春と秋と半年近いの灼熱地獄がある東京で、情報の刺激を受けて修行するのが良い、そんな考え方をしている。

とかく批判されがちな東京一極集中であるものの、それによって発展があるということや効率的な部分もあるので一概に否定はできないだろう。希望を言えば、もう少し涼しい場所に一極集中してくれれば…とは思うが、それは私個人の夢としてしまっておきたい。