2013/12/18

なにで写真を撮るか、なぜ写真を撮るか

ここ最近のスマートフォンのカメラ機能は進化の一途を極めている。

この流れの中で「コンデジ」と呼ばれるデジタルカメラが危機に立たされている。いわゆる、プロ用途の「デジイチ」とアマチュアがこれで事足りる「スマートフォン」の間に立たされて、帯に短し襷に長し状態になっているのだ。

現在最新のiPhoneも800万画素という高解像度である。一昔前の800万画素は完全にプロユースであった。800万画素で撮られた写真を光沢紙に印刷しても、銀塩のフィルムカメラと比較しても全く遜色はない。

プロ用途の「デジイチ」となると、さらに光学ズームであるとか発色であるとかといった差別化が可能となる。スマートフォンのカメラは所詮はデジタル処理であるものの、デジイチであれば巨大なレンズを装備して光学ズームが可能であったり、発色もスマートフォンのカメラよりも良いと言われている。確かに画素数的にはスマートフォンのカメラで十分な場合が多いものの、それでも画面上で見たり印刷されたものを見たときの発色に目を奪われることが多い。特にスマートフォンが苦手としている空であるとか花火であるとか、そういう画像はデジイチの面目躍如であろう。また、人であるとか肌の質感などを直接伝えたい写真でもデジイチで撮られた写真は説得力を増す。

このような中で「コンデジ」の立ち位置は微妙になってしまった。私もコンデジを持っているものの、ほとんどiPhoneのカメラで事足りる。コンデジを使う機会は、光学ズームが必要であったりする場合に限られるものの、コンデジの光学ズームはそれほど優秀ではないというのが使っていて思ったことだ。まぁ、これは使う人の腕にも左右されるところではあるのだろうが。

ブログに載せたりといった用途では、ほぼスマートフォンのカメラで撮影できる写真の解像度や品質で問題ないだろう。それにコンデジよりもiPhoneなどのスマートフォンのほうが肌身離さず携帯しているという事実もあり、さらにコンデジの立ち位置を微妙にしている。一般人がコンデジやデジイチを持つ理由が無くなりつつあるように感じる。

今後コンデジはどうなっていくのだろうか。立ち位置を明確にできなければ、今後数年間の間にスマートフォンかデジイチの市場のどちらかに吸収されてしまうのではないかとすら思える。スマートフォンのカメラの高機能化、またデジイチの小型軽量化による大衆化。それはどちらも楽しみな進化である。

話は変わるが、なぜ私たちは写真を撮るのだろう。

私はどちらかというと外見にコンプレックスを持っている人なので、子供の頃から写真に写るのが非常に嫌だった。今もあまり得意ではない。なので成人するまでの私の写真は非常に少ないはずだ。社会人になって普通に仕事をしている分には、写真を撮られる機会は格段に減った。ただ、ここ数年は勉強会やカンファレンスで発表したりするときに撮影されたりする機会も多く、それは許可している。人によっては「撮影NG」という人もいるが、まれな部類であろう。そこまでして拒絶しなくても私はいいかなという考えである。

ただ、被写体として写真に写った自分を見るたびに、学生時代から老化が進んでいるなと悲しい気持ちになる。最近では外見の若返りといったアンチエイジングが流行していたりもするし、運動をすることで新陳代謝を良くしていくという作戦もあるので、まさに写真に撮られる事が「若返りへの動機付け」となっている部分が大きい。しかしながら、主だった活動がまだできていないのが心残りであるが、それは来年2014年の課題としたい。

勉強会やカンファレンスに出た際は、自分自身がスマートフォンででもなるべく写真を数枚は撮ることにしている。その時の雰囲気を他の人に伝えたい場合、どんな言葉よりも写真に撮られた会場の風景が説得力を持つことも多いからだ。そういう積み重ねを他の人にも見てもらえることで、勉強会に足を運んでくれる人が一人でも増えれば良いと考えてのことである。また、プレゼンテーションをする際に、過去の勉強会の記録であるとか、自分が撮影した写真というものは使い勝手が良い。他人が撮影した写真はとかく権利問題があったりして使いづらい部分もあるので、日頃から人前でプレゼンテーションをする人は、自分用の素材として写真を撮ることを習慣づけると良いと感じたのもここ数年のこと。

自分一人の思い出であれば記憶力が良ければ頭で覚えておけばよい。しかしそれでも、人は概して忘れやすい生き物である。忘れやすい自分自身の精巧な外部記憶として、また他の人との過去の記録の共有手段として、写真は非常に効果的だと最近は痛感している。自分が被写体になることにコンプレックスを抱いていて写真全体を拒絶していた頃とは考えが随分変わった。

その他にも、写真が持つ芸術性であるとか、様々な理由で人は写真を撮るのだろう。「なぜ写真を撮るか」という簡単ではあるが考えるとちょっと悩む質問ではあるが、もしこれといった回答があれば様々な方から聞いてみたい。

写真をたくさん撮影すればするほど、その管理に頭を悩ませる人が多い。この部分については決定打といったものが存在しないようで、皆がそれぞれの方法で写真を管理しているようだ。私も写真は撮りためたものをスマートフォンに入れっぱなしにしている。何か良い管理方法を実践している人がいたら、ぜひともご教示願いたいところだ。

2 件のコメント:

  1. 「なぜ写真を撮るか」について、写真家の田中チョートク先生は「そこは未来に光の罠を仕掛けるという意味で面白くもある。」とブログや著書で書かれています。
    「罠」とはいろんな意味で含蓄のある言葉を使ったものだと感心しているところです。

    少しばかり歴が長いので上から目線で書きますが、同じ写真でも撮りたての時、数日後、数ヶ月後、数年後…に観た感想はかなり違います。写真って熟成するのかと感じていましたが「未来に光の罠を仕掛ける」に当てはめると妙に納得できたりします。

    写真の管理もまた難しい問題ですね。
    写真が「罠」なら、いつも手元にあって何度でも観ることができる環境は良いですね。iPhoneなどの画像表示能力に優れた携帯ディバイスを使うことは大賛成です。
    問題は電子データはなんともたよりないものであることですよね。いつまでも罠を楽しもうと思ったらバックアップは必須になります。
    PCへのバックアップはもちろんですが、私はGoogle+に無制限でアップロードできるサイズでアップロードしています。長辺が2048ピクセル以下なので、撮影後にリサイズするのが面倒なので最初から長辺が2048ピクセル以下の設定で撮っています(そういうカメラアプリを使って)。

    最後に「なにで撮るか」なのですが、結局は手元にある機材で撮ることになるので、コンデジだったり、携帯電話だったり、iPhoneだったり、銀塩カメラだったり…
    もし、全部手元にあった場合の優先順位を付けるとすれば、「銀塩」「コンデジ」「携帯電話」「iPhone」かな。単なる好みの問題だと思っています。

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  2. たしろさん、さすが長年写真を撮っているだけありますね。勉強になります。

    「未来に光の罠を仕掛ける」とは言い得て妙ですね。さすが写真家の意見は説得力が違います。

    私は昔は自分が被写体になるのが嫌な人間だったのですが、年月を重ねて振り返る日が来るだろうと思って、最近は比較的寛容的になりました。

    写真管理は模索の日々です。いろんな人に話を聞いても、みんなバラバラな方法で管理しているので、やはり決定打がないのだと思います。バックアップも課題ですね。クラウドに預けたとしても、ある日突然取り出せなくなったりすることだってあるかもしれない。なによりネットの向こうより手元にあったほうが参照が楽だったりすることもありますし。色々悩ましい。

    たしろさんのオススメでコンデジを買いましたが、今では画素数的にも携行性でもiPhoneしか使っていない感じですね。もったいない。光学ズームが必要な大規模イベントくらいでしかコンデジの出番はないのが現状です。それでもコンデジの力不足もあって、そういうときにはデジイチがいいなと周囲を見て思うことすら思っています。なににせよ、それらの巨大なデータをどう管理するか、また悩むことになるんだと思います。

    銀塩はすっかり見ることも無くなってしまいました。今度帰省した折にでも、銀塩で撮影された写真を見せてください。楽しみにしています。

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