2013/11/25

新聞のゴシップ化に我々はどう対応すべきか

子供の頃、新聞というのは正しい事実を伝える高尚な言論機関だと思っていた。学習教材や入試問題に使われたりすることもあって、そういう思いが強かった。

しかしがら、現在はそういう印象を新聞に抱くことは無くなってしまった。大手新聞社の新聞もゴシップ紙と何ら区別が付かなくなった…なんていったらゴシップ紙が怒る時代にすらなってしまった。

大人になって何が変わったか。それはインターネットの登場が大きい。新聞やテレビなどの「マスコミ」と呼ばれるメディアだけが多くの人に情報や主張が出来る時代は終わった。今やインターネット上で誰もが実名または匿名で情報を主張できる時代になった。

その中には、新聞記事の正しさや公平さに疑問を持った議論を目にすることも多くなった。それは子供の頃、またはインターネットという新しい媒体が存在する以前は、あまり無かったのではないだろうか。いわば昔は、新聞やテレビが言った事にそのまま踊らされる民衆という構図を感じる。

インターネットでは風物詩になっているネタの一つに「日本経済新聞の妄想記事」というものがある。日本経済新聞(日経)が有りもしないことを書くというものだ。これもインターネットの登場によって、企業が自社の意見をインターネットを通して大衆に伝えることができるようになった。日経が、とある会社を標的にした憶測記事に対して「一部報道機関による…当社ではそのような事実はありません」というリリースがその会社のウェブサイトに載る、というのは日常茶飯事ではなくなった。しかし世の中、すべての人がインターネットで新聞の裏を取っているわけではない。昔ほどではないが、少なからず新聞の影響力もある。「ひょうたんから駒」とは恐ろしいもので、日経の憶測記事で「傾く」と言われた会社が、それによって本当に株価が下がって傾く事態すらある。風説の流布としか言いようがない、呆れた日経テロである。「ペンは剣より強し」とはよく言ったもので、今の日経がやっていることは「ペンの暴力」に近いとすら思える。

最近では風物詩として笑い飛ばされていた日経の憶測記事の一つに「ドコモでiPhone発売か」というものもある。2013年にドコモでiPhoneが発売され、ようやく「日経の悲願」が達成されたとネットでは笑いものにされていたが、日経は数年前から年に何度も「ドコモでiPhone発売か」と書き、そのたびにドコモから否定のリリースが出るという事態であった。2012年頃にはインターネットで情報収集する人のほとんどは、日経が発する「iPhone」というキーワードが入った記事の信憑性を一切信用しないという風潮すらできた。日経の記者はドコモでiPhoneが発売されて欲しくて病的妄想記事を一心不乱に書いていると主張する人まで現れた。

「日経の悲願」は2013年に叶うことになるが、面白いのはそれを真っ先に伝えたのは日経でなく他の新聞社であったということだった。そしてインターネットで情報収集をしている人達は「あぁ、日経じゃなければ信憑性あるな」と言い、実際にそれは事実となった。日経もこの時後追いで記事を書いたものの、誰の相手にもされなかった事は言うに及ばずである。

2013年、バブル崩壊以降、日本の就職活動は益々厳しさを増している。そんな中、日経は就職活動中の大学生に対して「就職のためには日経を読んで経済を知ることが近道」といったような広告を出している。何となく、コンプレックス産業であったり不安産業であったりと似た手法を感じるのは気のせいだろうか。この風潮にはインターネット以前の中年壮年世代の日経信仰もあって、なかなか若者を苦しめている。この世代は若者を「面接する」側でもあるからだ。インターネットから情報を知り、日経の信頼性の瓦解を痛感している学生も、就職活動という厳しい活動のために、高い金を払って無駄な時間をかけてまで読まないといけない、またはそうするべきだと不安を背景に学生や若者を無理やり扇動している場面があるように思える。

ここまで痛烈にもとれる日経批判を繰り広げてしまったが、それほどまでに日経が自称報道機関として正確性に欠けた情報を節操もなく流し続けている、質の良いとはいえないメディアだと考えざるを得ないからである。文字だけで、これほどまでに人を扇動し、会社や経済活動に迷惑を掛けることができるんだという壮大な社会実験としては興味深いが、それ以上の価値が現在の日本経済新聞と日本経済新聞社には正直見受けられない。日経を片手に持つことがステータスだったバブル崩壊以前、それはインターネットの登場とともに崩壊してしまった神話であろう。

では何を信頼すれば良いのか。

日本の巨大匿名掲示板サイトを作った西村博之氏は「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉を残した。匿名掲示板には匿名ゆえに嘘やデマが書かれることが日常茶飯事である。その中から本当に役に立つ情報を見つける能力というものが匿名発言の世界を読んできた世代の一定数には備わっている。今やまさに「うそはうそであると見抜ける人でないと(新聞を読むのは)難しい」時代になってきているのかもしれない。

とはいえ、そういう商業活動報道機関の体たらくに辟易とした一部の人によってインターネット上で市民報道機関といった試みが何度かなされたものの、どれもうまくいったといえる事例が存在しないのが事実である。資金力と行動力といった部分では、まだ新聞やテレビの報道機関が優位な点であろう。今後もしばらくは「うそはうそであると見抜き」ながら新聞やテレビなどが発する情報に接する必要がある。

では我々は今後どのようにして報道機関の発する情報に接していけばいいのか。

まず新聞やテレビは全て正しい事を言っているという考えがあればそれを捨てるところから始める必要がある。いまどきそういう考えを持っている人は少なくなってきているとは思うが、まだ新聞やテレビの信頼性は大きい。かの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」と言った。自分の存在以外はまず疑ってかかる、という大げさなものであるが、新聞やテレビの信憑性の凋落、またインターネット上にあふれる信憑性の怪しい匿名情報など、今後情報と接する際に「まず疑う」という態度は非常に大切になってくるだろう。平和な日本の国語教育では全ての文章が正しいという牧歌的な世界観であるが、そんな教育では騙されやすい国民を養成するだけになってしまうだろう。学校教育の変革、もしくはそれとは別の教育が今後求められてくるように感じる。

社会に出て成人になると、政治的・思想的に新聞やテレビが必ずしも中立的ではない事を知ることになる。右が正しいか左が正しいかといった議論は置いといて、どんな報道を聞く場合にも政治的・思想的な偏りを加味してそれを頭の中で補正する力が求められるだろう。例えば、とある新聞は政治的・思想的に左寄りである。左寄りが正しいか間違いか自分の思想と合っているか合っていないかは別として、それを知り、それを知った上で情報を補正する力は必要であろう。自分が好む論調をする新聞のみ読むという手もあるが、それはそれで見識が狭くなるし、その新聞が発する情報全てが正しいとは言えないので、結果的に情報の真贋を見抜くスキルは必要となる。真贋入り乱れる情報源が多いからこそ、自分が触れる情報源は多いほうが良いという意見もある。

「どの新聞が最も中立的で最も信頼できるか」という質問に対しては非常に答えづらい。インターネット上の議論を観察していると、大体どの新聞社も定期的にとんでもない論調を繰り広げている事があるからだ。ただ私は日経は勧めない。不安商法で社会人の多くが読んでいる割にはビジネス上ことさら有益な事が書いてあるとは思えないからだ。人生には、他人と同調するのが大切な場面と、他人と同調せず自身を差別化するのが大切な場面の二通りがあるが、どうせ日経なんて誰もが読んでいるんだから、自分なら別の新聞を読んだほうがいいという後者的な考えが私の意見である。日経が良い悪いという議論ではない。ただ、私は日経の「風説の流布」に飽き飽きとしていることは前述でお分かりの通りだろう。読みたい人は読めば良いと思うし、何を読むかは自由である。

「事実を客観的に伝える」「特定の思想を入れない」というのに最も近いのは共同通信社が発する情報であると思うが、残念ながら共同通信社は新聞を発行していない、他の新聞社、特に独自の報道網が弱い地方紙のために報道情報を提供する報道機関のための報道機関だからだ。

今や新聞社もインターネットで情報を発信する時代である。一部の報道に関しては新聞を購読せずとも読める。特に各新聞社の色が出るのが社説で、各社の社説を読んでいるとその思想の違いが現れて面白い。ただ、特に地方紙の社説とかは、時に何を血迷ってこんな文章を書いたんだと甚だ驚くような思想以前の文章が載っている事があって、「国語の入試問題にも使われる」社説というのは一歩間違えると色々危険だなと思う事もしばしばある。社説の雛形というものも共同通信社から地方紙に配信されていると聞くが、丸写しはできないはずなので、社説には地方紙の考えと記者のレベルが露骨に表れる。それだから怖いし、真贋を見極められるだけの読解力を持っていると逆に面白いと言える。社説を読んで「これゴシップ紙じゃ…」と声を出して言ってしまう事も結構ある。強引な論理展開を楽しんだり、情報の真贋を見極める力がそこそこある場合は娯楽メディアであるともいえよう。ただ、高校生向けの入試問題等にはして欲しくないと真に願うばかりである。

前述の「ドコモiPhone」、日経が報道するたびにインターネットでは「またゴシップ紙が」といった論調が出るのだが、実際のゴシップ紙の一つである東スポ(東京スポーツ)はインターネット(Twitter)上で「私たちがやるならイタコでジョブズ(iPhoneを発売するApple社の最高経営責任者だった故人)降臨ですよ」などと日経を揶揄し、日経のようなものと一緖にされるのを酷く嫌う発言をするくらいだから、本当に楽しい。日経をゴシップ紙というのは本当のゴシップ紙に失礼だというのが冗談ではないのは、今の日経の状態と、日経に対する皮肉以外の何者でもないだろう。

私もそうだが、嘘の情報に踊らされて、それを拡散した経験がある人は少なくないだろう。そんな中で、人は「全ての情報が正しいわけではない」という学校では習わなかった事を学んでいく。今後はそういう事も若いうちから習うことになるのだろうか。とかく日本の国語教育は小説偏重で、大人になって技術書や説明書などの日本語で書かれたあらゆるジャンルの文書を読む際の配慮が本当に不十分だと常々思っている。それ以前に、情報の真贋といった部分を教育する必要があるというのが、インターネット上にあふれる真偽不明な匿名情報以前に、新聞という「権威のある報道機関」と接するための素養として必要であるというのは、なんと皮肉なことかと思わされるのだ。

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