2013/09/15

祖父に文章を書けと言われた

先日帰省した。2013年9月の始め。

普段は9月中旬に帰省するところだけど、今回は色々と都合がつかず、逆に9月の初めのほうが都合が良かった。

今回は少し長めに帰省する予定を組んだ。祖父が病気で大手術をしたという話を聞いたからだ。祖父のほかにも、身内で病気に倒れる人が続出して、以前から電話の向こうの母は疲弊していた。

実家に帰省して、祖父母の家に行ってみたら、祖父はピンピンしていた。休みの間毎日訪問したけど、その都度傷口を見せて自慢された。高齢ではあるものの、普段毎日山歩きをしている事などがあって、手術に耐える体力と回復力があったということらしい。

年齢が年齢なので、何かあったらという心配心があって長く休みを取ったものの、病気で倒れた身内のうちで一番元気なのが祖父だったというオチだった。一応、医者の言うことは守っているというか、医者の言うことを口実にしているというか、もう山歩きを再開していることについて「医者はもう運動しなさい山歩きしなさいっていっているから大丈夫」と言っている。すごいとしか言いようがない。さすがに医者は海外旅行は待てと言っているらしく、解禁されるまでモンゴル行きの旅行の予定は保留にしているようだった。ひとまず安心した。

祖父は昔からの人間であるが、20年くらい前から東芝のルポという純粋ワープロ機械を使って、旅行記を書いたりしている。ここ10年くらいはカメラに凝りだして、最初はデジカメを嫌って銀塩のフィルムにこだわっていたのに、知らないうちに「これは1000万画素の…」とデジカメを自慢し始めたりもする元気老人である。デジカメの写真管理のために、祖父の弟にパソコン環境を整えさせたりして即席現像環境まで作っている熱の入れようなのだが、ワープロだけはMicrosoft Wordなどのパソコン上のワープロソフトを使わず、東芝ルポから離れようとしない。これは誰もが言っても聞かないと諦めていて、骨董品となった東芝ルポの部品や代替機を弟に調達させているらしい。パソコンより高い買い物ではないか?でも孫の私が何を言っても聞かないから、歳は歳なんだなと感じる。

入院生活は長かったようだが、手術後すぐに生活に飽きがきたのか、病室にワープロとカメラを持ち込んで色々やっていたらしい。その成果が「闘病記」という冊子となって、心配して帰省した私に渡された。いつも強引に渡される旅行記の闘病版である。微笑ましい。

祖父は「お前、文章書いているか?理系の人間は文章を書かないから困る」と杓子定規な事を言ってきたので「これでもネットに色々書いているよ」と言っておいた。とはいえ、エッセー的なアウトプットは少ないなと祖父の言葉で思い直して、このブログ #think_ae を作ったという事情もある。大元のブログは技術記事や勉強会やカンファレンスの参加記録が多いが、そことは違う、日頃思ったことを書いていく場があってもいいと思っての事だ。むしろ、大元のブログも最近はアウトプットが少なかった事も気になっていたので、これからは思い立ったら書くといった、フットワークの軽さを発揮していきたい。もっとも、Twitterでは細々と日々の雑感をツイートしているわけで、140文字では収まらなくてアウトプットしていないことも色々ある。そういった事も書き綴っていきたいと思っている。

そういえば、祖父に「理系の人間はすぐ英語を使うのが困る」とも言われた。たぶん、カタカナ英語のことを指しているんだろう。そりゃ、海外の人との意思疎通のために書いたプログラムの説明を英文にする場合はあるけど、それは必要なことで、そういう事ではないのだろう。あぁ、この文章でもカタカナ英語をたくさん使っているなぁ。ただ、言い換えできない・難しい言葉は多い。楽天の「グローバルなベストプラクティスを実践していただくグローバルなオポチュニティ」はやり過ぎだけどね。何言っているんだか分からない。

祖父が元気なうちは、孫として頻繁に顔を見せてあげようと思う。その都度、無理やり旅行記を渡されたり、鮭とばやフルーツを食え食え言われたり、自慢話に付き合わされたりするんだろうけど、それも孫としての務めなんだろうと思う。

2013/09/12

FUDに負けない生き方

私は主にプログラム言語Perlを書いて仕事をしている。Perlが好きでもある。好きでもない仕事なんて少なくとも私は長く続けられない。Perlのおかげで楽しく仕事ができている。

大体季節の変わり目、3ヶ月に一度くらい「Perlは終わった言語」などといった記事が出回る。ネット用語では「disる(ディスる)」と呼ばれるようなこういった批判は、比較的歴史が深く先発のプログラミング言語Perlだからこそ、後発の言語に心酔した一部の出来の悪い勘違いプログラマーがやってしまう、よくあることらしい。プログラム言語自体に罪は無い。

彼らの目的は何だろう。変なプロジェクトで汚いPerlのソースコードを触るはめになったり、色々な事情でPerlが憎い、そして自分が心酔している他のプログラミング言語へ他のプログラミング言語を使っているプログラマを誘導したい、そういうことなのだろう。その材料の一つとして「Perlを使っていると職がなくなる」等といった話題を拡散させるという構図だと思われる。

元々はマーケティング用語であるが、こういった恐怖や不安に訴えかけた議論のことを「FUD」という。Wikipediaの解説が詳しい。

以前はこういった記事が出ると、Perlが好きなPerlプログラマがこぞって反論を展開していたが、結局はFUDを仕掛けた側の思う壺にしかならない。なぜならば、それによって良い意味で影響力の高い人がFUDの元記事を拡散させてしまうことになるからだ。最近では、こういったFUDは数カ月に一度の風物詩として「また出ましたねー」と流される傾向にある。またFUDされるのは、FUDを巻き起こしている側にも恐怖や不安であったり後ろめたさを隠している場合が多い。そういう部分をほじくり返すこともたまに行われるが、基本は無視か、FUDを仕掛けられた側の陣営の権威者の一刀両断で終わらせるほうが良い。

またFUDを仕掛ける側は「はてな匿名ダイヤリー」を使ったりと、大抵は匿名であることが多い。実名であることもあるが、そういう場合はある種の袋叩きにあって業界から危険人物扱いされてしまう可能性が高い。さすがにFUDを仕掛ける側も、そういう事を分かっている。

匿名の場合、匿名で言い返すことも可能であるが、結局は巨大掲示板サービス「にちゃんねる」のように「便所の落書き」にしかならないので、上記のような実名の権力者の一刀両断で終わらせるほうが良いと思う。

これはプログラム言語に限らず、自分の好きなエディタであるとかアーティストであるとか音楽であるとか、色々なジャンルで展開されうる事である。FUDは世界中で日常的に行われている。

最近キツイなと思ったのは、自分も属している特定の集団の顔の見える相手がFUDを仕掛けるといった場合だった。具体的な場所は伏せるが、私が採用した物事や私が属している物事や私が所持している物やスキルに対して「これは良くない」「こんなのやっているヤツは死ね」といった具合に、匿名掲示板さながらな物騒な言葉が飛び交う。明らかに私に向けられているFUDは、困ったことに周りへの雰囲気も害する。私は大人であるし、目上の人からも大人であれと言われていてるので、この実質的な個人対個人のFUDに対して色々な感情を押し殺して「皆さんの気持ちも分かりますし、きつい言葉やFUDはやめて、問題解決に向けて一緖に取り組んでいきませんか」と提案するものの、実際のところ私より年上の人が実名で堂々とFUDを繰り広げるという光景に、非常に残念な感じを覚えたし、正直なところ精神的に疲弊してしまった

ネットで恒例行事であるPerlへのdisやFUDは私個人に向けられたものではないが、さすがに個人対個人でFUDにさらされるとは思っていなかったので、匿名のFUDとは違う精神的な疲弊を味わったわけだ。そういった事があったので、改めてFUDについて考え直して、この記事を書いているという次第である。

では、匿名および実名のFUDに負けないためにはどうすればいいか。

まずはFUDという言葉が表しているような「恐怖に訴える論証」が誤謬である事を説明し宣言することである。Perlがdisにさらされた場合は、それに憤慨するのではなく、その裏を読み解き、相手の都合の良い誘導を見抜き、それを指摘することである。

たぶん珍しいケースである個人対個人のFUDに対しても、同様にそれが誤謬であることを説明するしか方法がないだろう。その時は顔が見える相手同士、その後気まずくならないような配慮は必要である。もちろん、コミュニティを破壊してもよいのであれば派手に行動しても構わないが、コミュニティに属している他の人の気分を害することは好ましいことではない。大人の対応をしていくべきであろう。

残念ながら「全ての人間は概ね正しい事をいう」というのは高校生の国語の授業までだ。社会に出ると、こういったFUDが渦巻いている。これを真に受けて憤慨してみたところで相手の思う壺だ。グッとこらえて、その裏を観察した上で、適切な対応をしなければならない。それが大人力でもあり社会人力でもある。私も社会人になりたての若い頃はそういったFUDに乗せられて怒ったりしたものだ。今思い返せば相手の思う壺だったのだろう。

そもそも、余計なFUDに構う必要はない。自分に関係ないと思ったら(守りたい別の誰かや何かがあるなら別として)FUDはスルーしてしまってもいいだろう。また、FUDを巻き起こす癖のある人というのもいて、そういう人から距離をおく事も大切だ。私のTwitterアカウントでは、FUDを頻繁に展開する人は積極的にフォローから外して、健全なタイムラインを形成している。見て不快になるだけのものを見ても損でしかない。

結論を述べると、やはり「冷静になって物事の裏に隠れた真相を見極めろ」ということなのだろう。年を重ねて血気盛んな若い頃に比べて癇癪持ちではなくなり、多少は温和になれたので、そういった事を心がけてFUDや詭弁に柔軟に対応していこうと思う次第だ。

2013/09/10

客の民度という話

会社の近く徒歩圏内にはそこそこの飲食店がある。会社は最寄り駅に近く、そこそこの郊外なので、色々な店に足を運びやすい。

昼食という視点で飲食店を選ぶ際、価格や食事の美味しさという点が重視されると思ったものの、ここ一年くらい「客の民度」で選んでいる事が多いことが分かった。あとは、連続で同じものを食べないといった気分的な問題だけ。

会社の近くに、定食が安くて美味しい飲食店がある。名前は伏せるけど、ただここ一年くらい来店したことがない。何となく避けていた頃に、なんで考慮外にするんだろうと考えたら、それは「客の民度」が悪いからだということに気づいた。

その店は、昼間から必ずと言っていいほど酔っ払ったオッサンがいて、瓶ビールを横に大声で話をし、タバコを周囲の食事中の客への遠慮無く吸いまくる。店員側の対応を見ていてもそのオッサンは常連客らしく、特に疑問もなく会話をしている。酔っ払ったオッサンは何パターンかいるのだが、ほぼ必ずと言っていいほど酔っ払ったオッサンが先に来店しているか、私が来店しているときにやってくるというパターンが続いて、鬱陶しくなったというわけだ。

そのオッサンはどうして昼間から飲みあくれているのか。すぐに出てくる疑問ではあるが、スーツを着ているし羽振りが良いところで職無しという線は大体外れる。観察していると、どうやら店員側が「教授」とか「先生」と呼んでいるところ、また駅最寄りに総合病院があるところを見ると、このオッサンは夜勤明けの医師ではないかという説が出てくる。そういったオッサンが、昼間から酒を提供している数少ない店に通うという構図だ。

夜の店や居酒屋であれば通用するというか仕方が無いなと諦められる「民度」でも、昼間仕事の合間にホッと一息食事をする中でこれをやられると正直つらい。その店の昼の客入りはそこそこのようで、オッサンによる全体的な入店抑制効果は無いように見えるものの、私のようにそれに敬遠する客もいるだろうことを考えると、オッサンによる機会損失は結構あるんじゃないかなとすら思える。とはいえまぁ、昼間の営業は補助的なもので、収益の半分以上は夜の営業が占めているとも言える。ただ、店のイメージダウンになっていることは確かだろう。

自分も酒が入ってしまえば、酒が入った他の客の民度も気にならなくなる。自分の「民度」も下げて郷に入ってしまう作戦だ。居酒屋という文脈ならそれが妥当だ。タバコの煙が苦手な私も、酒が入っていればそれに鈍感になれる。夜ならそれができるが、昼間、しかも仕事の合間の昼休憩の時に酒を飲むわけにはいかない。結局は、民度の低い店に入って、民度の低いオッサンに店が「飲まれて」しまうと、せっかくの昼休憩が後味悪いものになってしまう。

結果、多少高くても遠くても、店が提供する何かではなく、店にいる客の民度が低くないかで店を選ぶという、ちょっと不思議な事になっている。しかし、それは昔からある話だった。

とある大物お笑い芸人は、自分のライブチケットの価格を1万円に設定した。1万円の価値が自分にあるという自負もあるだろうが、1万円も払ってやってくる客は自分への理解があるからという狙いがあったという。数千円であれば広い場所を借りてでも薄利多売ができるだろうが、そうすると冷やかし目的で来る客であったり、自分の芸風を理解しない客がやってきて、場の空気を盛り下げるという事なのだろう。まさに民度の話に近い。

私はクラシック音楽が好きで時々チケットを買ってコンサートホールに足を運ぶが、稀に隣の席の客がうるさかったり臭かったり、クラシック音楽のコンサートのマナーを守らない客だったりすることがあってガッカリすることがある。むしろ、コンサートの音楽の質に満足できずに不満を持つよりも、隣や近くの観客の民度の低さに不満を持つことのほうが圧倒的に多いのだ。

クラシック音楽のコンサートホールだけでなく飛行機でもそうだ。電話やネットでチケットを買う際、座席選びをするところで必ず思うのは、前の方であったり都合の良い席ではなく「隣の客を選ばせてくれ」という事。

キリスト教は「隣人を愛せよ」と言うものの、聖人でもないのでその境地に至るのは非常に難しいだろう。最近は老若男女がキレる世の中、行動を注意しても無駄なばかりか危険すら及ぶことさえある。むしろ「君子危うきに近寄らず」といった教訓で行動したほうがいい。そのために、隣人がどういう素性なのか、プライバシー保護全盛の世の中であるものの、自分の手中に収めたいという気持ちが湧いてくる。実際にやったらダメなわけだけれども。

住み始めて長いこの木造ボロアパートも、以前の隣人が深夜に連日大騒ぎをしたりしたなぁ。不動産会社もロクでもない審査より、木造ボロアパートのマナーをわきまえている民度の高い人間のみ、格安の木造ボロアパートに斡旋してほしいもの。

客の民度に限らず、近くの人への配慮を忘れてしまったら、その人や関係者はきっと結果的に孤立への道を歩むことになる。これは自戒を込めて思うこと。私も若い頃は若さ故にそういう迷惑を周囲にかけたこともあった。そういったことを忘れずに、今の私はあらゆる場所での「近くの人」への配慮を忘れないようにしようと感じました。

2013/09/03

iPhone 5 にキズがついて思ったこと

iPhone 5 の背面にキズがついた。久々に遠出してそこで酔ったり色々していたので、気づかないうちにキズをつけてしまったのだと思う。

今使っている MacBook Air 2013 も、買って1ヶ月経たないうちにキズをつけてしまった。フタ側の縁に目立たないキズではあるけど、3ヶ月くらいは「無傷」で使えると思っていたのでショックだった。もうしばらく経ったので立ち直ったけど。iPhone 5のキズも、そうやって気にしなくなって乗り切っていくのだろう。

iPod が流行ったとき、裏面の鏡面部分が明らかに傷つくことについて、ジョブズは「それは自分だけのiPodが出来る過程」「iPodは毎年買い換えるもの」といったことを言っていた気がする。確かにそんなものなのかもしれない。大破させて使用できなくさせてしまわなければ、それは自分のデバイスを作る過程なのかもしれない。

昔は買ってきたノートパソコンや液晶ディスプレイを点灯させたらドット欠けの一つや二つがあって落ち込んだ経験は多い。最近ではそんな経験はだいぶ減った気がする。液晶の生産技術が高くなったということなのだろう。

キズ付けたくなかったら保護シートをつけるとかした方がいい。iPhone 4 は保護シートを付けていたけど、iPhone 5 では前面のフィルムとバンパーだけで、背面の保護はしていなかったのはうかつだったかも。それでも前述の通り、しばらくしたら気にしなくなるんだろう。というか、気にならなくなってほしい。

次期iPhoneの噂も出ている昨今。ジョブズの言う「毎年買い換えろ」的に言えば、新しいiPhoneを買うきっかけなのかもしれない。なにごとも何かの良いきっかけだと思うようにすれば切り開ける道もあるだろう。前向きに行きたい。