2013/11/14

座右の銘は「人間は考える葦である」

人生の要所要所で聞かれるものの一つに「座右の銘」がある。

本当に自分の人生の教訓として日々肝に銘じている人、たまに聞かれるから回答を準備しているだけの人、今日この文章を読むまで気にしたことが無かった人、色々な人がいそうではある。

私は高校時代から数学が好きで、大学時代に数学を専攻していたこともあって、哲学者であり数学者であるパスカルの「人間は考える葦である」という言葉が非常に好きだった。まだ座右の銘を聞かれない年齢からそうだったものの、社会人になってからもその言葉が好きだったので、自然と座右の銘にしている。

「人間は考える葦である」とは、パスカルが晩年に書いた断片の中の一節で、それが後世「パンセ」と呼ばれる断片集に収録されることになった。この「人間は考える葦である」を収録した断片の全文はもう少し長い。色々な和訳があり、解釈も様々であるが、この部分の解説は哲学に詳しい人に譲ろうと思う。

葦であるというのは、この断片の全文の中に登場する「宇宙」との関わりである。人間は宇宙や自然、それに病気などの運命的要因によっていとも簡単に押し潰されてしまう存在であることを言っている。文字通り、人間が生身で宇宙に放り出されたら一瞬で死んでしまうことだろう。パスカル自身、終生病弱であり40歳を迎えず亡くなったことから、日々病魔と戦う中で、病気に抵抗するのではなく、病気と共に細々と生きていくという意味も葦という喩えに込められているという人もいる。強風で木々は折れたりするが、葦はしなることはあっても、風が止めばまた元通りになる。弱いものを形容する方法は様々だが、パスカルが葦という題材を選んだのはそういう理由なのかもしれない。

そして、パスカルが言う「宇宙」はいとも簡単に人間を押し潰してしまうが、人間は考えることで宇宙を包むことができるという。2013年現在、宇宙というものの大部分が未知の領域であるものの、人間は考えることを繰り返して宇宙というものの全貌を知ろうとしている。最近であればヒッグス粒子の発見などが記憶に新しい。この下りは、「宇宙」という単語と「考える」という単語の原文のフランス語で発音か綴りが掛かっているという話を聞いたことがあるが、それが正しいものか、またどういったものかは覚えていない。

私が非常に共感している事は「考える」という部分である。全てのことにおいて、楽しい事を切り開いたり困難を打開したりすること、それら全てがまず「考える」という活動から始まる。考えるということは理性的である人間の重要な活動であり、また私が最も重要視していることの一つでもある。それは数学や哲学のみならず、全ての人間の活動で重要なことであろう。

突然だが、数学や論理学には対偶という概念がある。「PならばQ」という命題が真であれば「QでないならばPでない」という命題も真であるというものだ。「人間は考える葦である」を対偶命題にしてみると面白いというか恐ろしい。人間が宇宙に押し潰されてしまうことは自明なので葦の下りは簡潔化のために省いて対偶命題にしてみると「考えなければ人間ではない」となる。人間は日々考えなければならないのだ。考えることをやめてしまうと、ある意味人間としての主体性を失っていると言われても仕方が無いように思える。確かに仕事上でも考えることを怠りがちな人と会話をしていると、人間と会話している気がしない、出来そこないの人工知能と上辺だけの日本語を交わしているだけの気分になる。

考えすぎることでネガティブ思考を持ってしまうことも良くない。私はつい考えすぎてその罠にはまることが多く反省することたびたびではあるが、人生を楽しくするアイデア、仕事を豊かにするアイデア、そして人々を幸せにするアイデアは、日々考えることを突き詰めないと出てこない。「ひらめき」という言葉もあるが、ひらめき自体も日々考えることが下地になっていることが多く、毎日何も考えず突然ひらめくということは無いように思える。やはり日々考えることは大事だ。

数学者としてのパスカルも見習いたい。数学は万物を解明するための基礎理論である。社会人になって怠りがちである基礎の勉強もしなくてはならないと、この文章を書きながら思った次第である。数学は考える絶好の教材だ。

晩年のパスカルではないが、日々困難が多い現代社会、私は弱い葦のような人間であるが、宇宙が与える運命を受け流しつつ、考えることでそれを打開して少しでも社会に貢献したいと思う今日この頃である。

2 件のコメント:

  1. いいと思います。!

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  2. スマホという必需品ができてから人は考えなくなったのかなと、考えてもすぐ忘れるようになってしまったのかと。プラスでもありマイナスでもあり、

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