子供の頃は自転車生活だった。自転車があれば遠くまで行ける。交通機関に乗るお金もない、自動車も運転できない、子供の必須ツールである。
そんな中、頼りになるのは自転車屋だ。パンクであるとか調子が悪い自転車を修理してくれたり、役立つ存在である。ただ、私が子供の頃住んでいた場所は田舎で、少なくとも徒歩圏にある自転車屋は一軒しかなかった。故障した自転車に乗って自転車屋に行くわけにはいかないわけで、徒歩圏に自転車屋があることは重要である。
その自転車屋は、自宅から徒歩数分の場所にあった。ガレージを改造したような内装で、多少の油っぽさが機械的な感じを漂わせた。今思い出しても懐かしい場所である。ちなみに、その自転車屋は2013年の今は建物は取り壊された後で、存在そのものが無くなっている。
その自転車屋は、小学校高学年になるくらいまでは普通に日中に営業をしていたのだが、ある時を境に店が空いている事を見ることがほとんど無くなってしまった。
自転車屋自体は行動圏内にあったので近くを通るたびに観察していると、夕方以降照明が灯っていることがある。特に用事は無いものの、恐る恐る入ってみると、いつも店を切り盛りしていた30代くらいのお兄さんがいて「最近は営業日も定まっていなくて、営業できても夕方1時間くらいなんだよ」というようなことを言っていた。
その後、祖父母か親戚に話を聞いたら、そこの自転車屋のお兄さんは工場務めを始めたらしく、いわば工場務めのほうが本業で、自転車屋稼業は近隣の住民のために細々とやっている副業という感じになっているようだった。そんな自転車屋も、次第に営業すらしない日が増えていき、事実上の閉店状態になってしまい、近隣の人達にも気にされなくなった。
私も高校生になり、行動圏内が広がり、高校近くの自転車屋で自転車の修理やメンテナンスを行ってもらうようになり、その不思議な自転車屋のことを思い出すことも無くなってしまった。
高校時代は受験等で忙しく、既に不思議な自転車屋のことを気にすることが無くなったものの、この頃に区画整理でその不思議な自転車屋の建物自体が取り壊されることになったのだと思う。本当、知らないうちに無くなっていた。あの工具で汚れた油っぽい敷地も綺麗になり、今は普通の住宅地になっている。
最近、このことを思い出して、いくつか考えるところがあった。
一つは「副業」の事だ。その自転車屋は自転車こそ売っていたものの、仕事の大半は近隣住民の自転車の修理やメンテナンスだったと思う。そこから得られる収益たるや、想像するまでもなく少ないだろう。そこそこの田舎である。自転車もそう毎日飛ぶように売れるとは思えない。お兄さんを工場という「副業」へ駆りだし、そして副業と本業が事実上入れ替わるまで時間はかからなかったのだろう。
もう一つは「その後も細々とでも自転車屋を続けていた」事だ。休業日の方が多い、開店していても1日1時間、それでも細々と続けていたのは近隣住民のためを思ってのことだったのだろう。私もその空いている1時間を狙って修理をお願いしに行ったことがある。こちらは既に「副業」ですら無く「地域貢献」の一環だったのだと思う。
かたや私たちの世代が生きている今の時代は、長い不況から抜け出せないでいる。給料も上がらず、高齢化社会が進むばかりで年金制度を維持するために税金だけは非情にも上がり続けている。一人暮らしをしていても貯金はも貯まらず、夫婦も共働きを強いられる。この現状に打開策もなく、時には副業を考えたくもなるものの、多くの企業は副業を禁止している。それは当然であるという意見もあるだろうが、本業に支障が出ない範囲で副業を認める事で従業員が豊かになり精神的余裕が出てくる可能性もあるのではないだろうか。また副業によって視野が広がったりする副次的作用もあるだろう。節度ある副業許可は悪いことではないと思うのだが、多くの企業はそうは考えない。もし副業のほうが「本業に支障をきたす」事があれば、それは副業のほうが本業としてふさわしいとも言える。
多くの「副業禁止規定」は、何が副業かということが明確になっていない場合が少なくないということも疑問に思うことだ。今のネット時代、パソコンがあれば工夫次第で身体を動かすこともなく短時間でそこそこの収入を得ることもできるものの、いったいどれくらいのコストと対価が発生したら副業にあたるのか全く分からない場合が多い。
もう一つ、「不思議な自転車屋」に習うことができるのは、「副業」が社会貢献や地域貢献になる可能性があることだ。週末に自分の知っている知識を教える、ブログ等を執筆する、体の不自由な人に手を差しのべる、等々といった活動は社会貢献や地域貢献と言っても差し支えないものだろう。副業禁止規定の線引きの曖昧さは、こういった社会貢献や地域貢献の機会を奪う可能性のあるものとして、非常にもったいないと感じる。副業禁止を批判するつもりはないものの、「対価が得られる社会貢献活動」は多くの人にとって有意義なものであり、一企業として推進とはいかないまでも、それを頭ごなしに制限する事は社会的な損失とも言える。
私も1日1時間は私的な時間で仕事とは関係ない、公開して使ってもらうためのプログラムをしたり、ブログを執筆したりしている。アフィリエイトなどで多少の対価が出る場合もあるものの本当に小銭程度であるが、執筆したものを読んでくれる人がいて役に立ったと思ってもらえれば多少の社会貢献になったと言えるだろう。世の中にはこういう活動を「目立ちたいだけでは?」と侮辱する人もいるようだが、そういう人も今やネットで情報を検索している。検索して出てきた結果はそういう「社会貢献」をしている人によって書かれたものであって、有り難がることはあっても侮辱する事は言語道断であろう。すべての人がそうであるかは分からないが、多くの人にとって目立つことは副次的作用であり、純粋に自分の発信した情報が役立ってほしいという想いによって成り立っているように思える。
いつ「区画整理」があるか分からないが、私も1日1時間でも時間を作って、自分の持っている情報を公開したりといった社会貢献と言える活動を微力ながらしていきたいと、在りし日の不思議な自転車屋を思い出すたびに考えさせられるのであった。
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